2.01.2015

助け、助けられるということ

一日もはや憶い出となる夕べの頃おいの水面を渡る音楽にも似た人々を身の囲りにもつがよい。(「善悪の彼岸」)

ぼくは社会不適合者でありつまはじきものである。

ところが、「ぼくは弱いのです。助けてください」と周りにたいして助けを乞うときの、あの快さ。ひとびとは、やはり、優しい。

たすけ、たすけられるときの人間の関係は、きわめてプリミティブで、したがって美しく、力強いものだ。

どんなに敵対している人間でさえ、彼が餓え死にしそうなときに、パンを分けあたえないことはない。彼が死にかけているときに、彼の心や体を踏みにじることはない。

人間関係は、いびつにゆがめられてきた。愉快に話せること……はっきりと物事をしゃべること……そんなものが何になるのか。

ひとは必要以上にひとに翻弄されるようになってきた。友人関係がうまくいかない、家族関係がうまくいかない。

そんなことは当たり前だ。きみたちは近すぎるのだ。お互いがお互いを恃み、独立していない。君たちはたがいに助け合っているように思っているが、その実お互いを嫌悪し侮辱しているのだ。

分子間の引力と斥力

分子は近付けすぎると反発する。その反発力の強さは、すさまじい。その反対に離れるとどうだろうか?関係は0に精算される。

凝り固まった関係にどちらが有益か、考えることだ。恋人が「距離をおきたい」と言ったのなら、それはすなおに認めることだろう。

そうして、グラフのように人間関係には、近すぎず、遠すぎずの良い関係があるはずだ。

人間は仲間にはがまんできないと感じながらも、一方でこの仲間から離れることもできないのである。(「非社交的社交」カント)

ひとびとは、まず、独立することを学ばなくてはならない。しかし、同時に助け合うことも学ぶべきだ。ひとはひとりで生きているのではない。

人間は人間を助けるようにできている。法律や、税金によって強制されるのではない。ひとはそれぞれでは完全ではない。詩人は武人ではないし、武人は商人ではない。

ぼくらは必要なときに「助けてください」と言わねばならない。個々人はそれ自体では完全ではなく、ある分野では無力であることを知っていなければならない。

憂鬱に落ちこんだときや、乗りこえられない壁を見つけたときは「助けてください」と声をあげるべきなのだ。

人間は、君を助ける。

"The Water Carriers" by Xavier Martinez

ぼくらは、人間関係を始原に戻してしまわなければならないだろう。ひととひととのつながりは自然に作られるものであって、鋳型があるわけではない。理想もまた、ない。

ぼくらは自然的感情を尊重すべきなのである。人間は人間とうまくやっていける。ホームレスのひとを、軽蔑の目で見たり、派遣は負け組だから見捨てればよい、という考えは、自然に反する。

困っているひとは助けよ。

助け、助けられよ。

極論すれば、自余の人間関係は、すべて不純である。母は子を助ける。男は女を助ける。そうして、子は母を助け、女は男を助ける。ひとはひとを助ける。

それ以上のなにが必要なのか?

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