2.11.2015

霊感について

芸術とはすべて霊感なのだと思う。文章は文章であってはならない。文章はテキストであり、同時に音であり、絵である。ゆえに、それは無限の広がりをもった世界でなくてはならない。

霊感という言葉は非科学的だとみなされるらしい。それは当然であって霊感を慎重に取りのぞいたものが科学だからだ。だれにでも公正明大に理解可能なものが科学だ。ところが霊的なものの理解ははっきり個人の資質に頼られる。

端的な例では幽霊が見えるひとと見えないひとがいる。これは生まれもった血によるものであって、見えるひとはとことん見え、見えないひとにはまるで見えないものなのだという。(ぼくは後者)

幽霊となるとすこし逸脱するから、別の例をあげよう。ある部屋にいて、居心地が悪くて十分でもいられないという人がいる。しかしそこに住んでいるひとは何十年も住んで平気なことがある。溜まったゴミの臭い、明るすぎる照明、電車のとおる騒音、色彩の強すぎる家具、など、前者にとっては信じられないほど苦痛な環境に、後者の人間は平気で住んでいる。

この場合は前者のほうが霊感が高いということができるだろう。それはつまり感覚の鋭敏さといってもいいし、神経系の反応閾値が低いといってもいいかもしれない。後者の人間には前者の不満は理解できないだろう。説明したところで、あまり通じるものではないのだ。これが科学的学習と違い、霊感が資質によることを示す。

ぼくは幽霊というものに懐疑的だが、おそらく環境的な負の要因の集積が、意識の表象に幽霊という人的な形であらわれているのではないかと思う。心霊スポットといわれる場所は、行ったことのあるひとならわかると思うが、たしかに薄気味が悪い。居心地は最低である。それは端から心霊スポットと知らなくてもそうなのである。あとから「あそこはね……」といわれて、合点がいく、ということもある。

場は霊気をもっている、と感じる。ぼくらはより高次の五感によってか、あるいは第六感によってかはしらないが、場から少しずつ霊気を感じとっている。だれにとっても海は開放的で美しく、同時に自然に対する畏怖の感情を持たせるものであり、山頂はわびしく、気高く、力強い。

ぼくらは自然から切り離されてしまうわけにはいかない。無機的に見える東京の街並みだって、コンクリートもビルも電柱も自動車も、すべての資源は大地の自然を利用してつくられたものである。もちろんコンクリート舗装から霊感を得ることは森のなかの巨石から得ることよりも難しいから、OLやサラリーマンは、長期休暇を利用してたびたび田舎へ旅行をしなくてはならない。

結局のところ木で作られた家もコンクリートで作られたビルも変わらず、自然的である。ぼくらの身の周りのものすべてが、人間が「生みだした」ものではなく、人間が「自然を加工した」ものであることに気づくべきである。人間はあいかわらず地球の乳房からミルクを飲んでいる赤ちゃんに等しい。

Earth - Jean-Michel Basquiat
"Earth" Basquiat 1984

そうであるならばアースの声に耳を傾けよ、というと新興宗教の開祖みたいだが、地球の声にはあるていど耳を貸さなければならないと真に思う。さいきんぼくの脳裏にはひとつの言葉が焼きついている、それは二宮尊徳のいった「誠実な人間は未来のことを知ることができる」という言葉である。

誠実な人間とは何に対して誠実であることなのだろうか。日本人の感覚では、他者に対して誠実である、となるかもしれない。キリスト者であれば神に対して誠実である、ということになるだろう。

ただぼくの思うかぎりでは、誠実であることは、何かに対して約束を守ることではなく、単純に自然であることだ。なぜなら、自然に誤謬や虚偽はないからだ。そうして、そもそも、人間は自然なのである。

ぼくは人体の構造をよくよく勉強したのだが、人体というのは、不思議なものである。いったい、ぼくの心臓は、ぼくのものなのだろうか。ぼくの意志とは無関係に動いて、ぼくの脳に血液を与えてくれる。アステカの儀式ではないが、ナイフで心臓だけをとりだしてみても、そいつはドクドクとひとりで脈打っている。こいつは何ものなのか。「ぼく」なのか。

このように、自分という存在の所有物が、ふつう考えられているような「肉体」というひとつの枠組みではないといったん考えてしまうと、深く思索の網にからめとられてしまう。ぼくの精神だって、ぼくのものではないかもしれない。ぼくは言葉によって思考するが、この言葉だって他者からの貰いものである。

ぼくはわけもわからずこの言葉を使う必要にかられているのだけれども、この日本語のもつ言葉の意味、起源、力を、十分に理解しているわけではない。けっきょく、言葉とは何ものなのだ?言葉がぼくのものでないとしたら、「ぼく」はどこにいるのか?

心理的に、言語なしに得られる観念とは何であろうか。そのようなものはたぶん存在しない。あるいは存在しても、無定形と呼べる形のもとでしかない。私たちはおそらく、言語の助けを借りずには二つの観念を識別する手段をもたないだろう。(断章/ソシュール) 

ともあれ、人間とは思った以上に自分の意志で動いているのではない。ぼくらの肉体は自然であり、また環境も自然である。ぼくらは自然を克服したようにおもっているが、それも変形した自然なのである。

誠実な人間は、さきのことを知ることができる。誠実な人間とは、自然的な人間である。なぜなら自然ほど誠実なものはないからである。自然的な人間は、先のことを知ることができる。

先のことを知ることのできる人間こそ、人間としてきわめて重要な能力をもっていると思う。おそらく人間を人間たらしめる極めて特徴的な能力は、想像力だからである。

そうして、先のことを知る人間が、つねにその力によって、人類を導いてきた。それは遠く過去をさかのぼればシャーマンや巫女であり、いまであれば芸術家や思想家になる。

世の中のあらゆる創作物は、先のことを知る霊感によらなければならない、とぼくは思うのである。霊感を欠いた作品は、良い商品にはなるかもしれないが、その場かぎり、消費されて、捨てられて、おしまいである。



優れた作品に対する讃辞として「神がかっている」という言葉があるでしょう。神がかり、シャーマニズム。心霊、神霊ということなのですよ。





ところで、二宮尊徳は一圓融合を説いた。一圓とは村社会の協調性を説いたものだろうが、もしかすればずっと深い意味をもっていて、地球との和合を示しているのかもしれない。二宮尊徳のちょうど生まれた頃に、本木良永によってコペルニクスの地動説が日本に紹介された。このことが関与しているのかもしれない。

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