2.16.2015

権力への意志

なるほどIMFはヤクザで首相はヒトラーでイラク戦争は制裁でグローバリズムは罠で宗教は詐欺で教育は洗脳で町内会はファシズムだったと。それはわかった。

それでぼくはどうしたらいいんだ。世の中が一気に冷たくなってしまった気分だ。

ただひとつわかったことといえば人間は理由のないことをしないということだ。ある意味すがすがしいくらいに。人間はある欲動につきうごかされる動物にすぎないのだ。

善意とは虚偽か、あるいは奇跡だ。ぼくらに関心のあることといえば、自己を拡大していくこと。すなわち、権力への意志、それしかない。「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」。なるほど、やっぱり常にニーチェは正しい。

世の中はこれだけなのだろう。フロイトはリビドーに全てを求めた。土居は「甘え」に全てを求めた。しかしそれよりも「力」に求めたニーチェがより優れた精神分析家のように思う。

もちろん、世間一般の小市民たちは善意を振りまいている……。権力?そんなものはごめんですよ。わたしは家内と息子が幸せならいいんだ。つつましい家庭、それがわたしの全てです……と、言う人があるかもしれない。彼は、実のところ、見事に抑制された動物ではないか?エサを食べようとすると電気ショックを受ける牛は、しまいには餓死するというが……。

だれもかれも権力を志向する世界、そんなものを世の為政者は望むだろうか?あなたが王さまだったとして……だれもかれもが自分の座を奪いにくるような世界を望むだろうか。そんなはずはないのだ。だれもかれも弱々しく、生活に満足し、なにも知らないような状態、これこそが「理想」なのだ。

そういうわけで、いわば道徳とか、宗教というものは、都合の良いように改竄され、ひとびとは権力を意志しなくなる。そこでは、だれもが足を引っ張りあうような、相互に均質化の監視を行うような、ファシズムの世界が広がる。

だからニーチェは能動的ニヒリズムを説いたのだな。権力を志向する人間どもは醜い。しかし、それでもあえて権力を意志する。同じ土俵に立ち、自己を広げてゆく。戦う、という決意をする。貧弱な人間であるよりは哄笑をあげる金毛獣であろうとする。

人間がよりよく生きようというのなら、それしか道がないのかもしれない。ニーチェの時代もそうだったし、いまではもっとそうなのだろう。



ぼくは見えない敵と戦う中二病なのかもしれない。ぼくはおそろしく愚かな人間あるいは統合失調症患者のように思われるのかもしれない。もちろん常識的な視点に立てばそれが正しいことをぼくは知っている。ぼくも小市民の一員であるから。

でも、常識、それがなんだというのか。それは不変の真理だろうか?それとも突貫工事のイデオロギーだろうか?

日本人がきれい好きなのは東京オリンピックからで、それより前は道にゴミを捨てる痰を吐く列に割りこむという有様だったことはあまり知られていない。

ともかく、ぼくは1=0の世界に恋い焦がれるのである。

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