2.17.2015

いろいろと考えるけれども

自分の現実認識を考えるとずいぶん甘っちょろい。

世の中をどのように見ればよいのか、ということがいまだにわからないでいる。人と人とのつながり、世界の全般的システム、人生の生き方について、明確なモデルがない。宗教はいろいろ教えてくれる。ただ、警戒心が沸いてしまって、それらに没頭することができない。

キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、いろいろあるけれども、莫大な人数の人間がそれらを信じているということは、おそらく虚偽なのだろう。なぜなら、大衆は真理に到達できないから。真理に到達できるのは、少数の慧眼をもった人、真理のためには世俗的なものを捨てる覚悟をしたひとである。(だから東大生がオウム真理教のようなカルト教団に魅惑されるということも少しは理解できる)

真理は広まらない、というのが実際のようで、教育でも、マスメディアでも、包み隠されている事柄は多い。たしかに図書館にいけば、たいていの真実はそこに記述されている。

しかし、あるAという書物を選んで、Bという書物を選ばなかった、とする。そのために真実に到達できない、ということはよくあるものだ。それでは、なぜAという書物を選んだのか?Bではなく?

ここではたらいているのは、はたして意志という言葉で片付けられるものなのか。環境と自己に還元できるものなのか。そこにはある種の力、イデオロギーがはたらいているのではないか。それはマスメディアや教育を媒介とする権力者たちのはたらきがあるのではないのか。

このように、世の中は情報戦といってもいい有様で、真実というものは巧妙にごまかされる。事実は常にそこにあるのだが、イデオロギーのフィルタリングで、あたかも存在しないかのようにされてしまう。

反対に「ない」ことを、あるかのように見せることも可能で、権力者がマスメディアを利用して行う奇術はある意味で魔法である。現代では畜群を追いかける犬も不要になったようで、ただ羊たちに「そこに犬がいる」と思わせることができれば、畜群は勝手に動いてくれる。このことが、最近ではとくに汎用されているな、と思う。

それで真実に到達するにはどうすればいいのか、ということをよくぼくは考えるのだけれど、けっきょく、人間に聞いても埒があかないのだと思う。そういう事情から、森や海と心を通じ合わせることで、そこから智慧を得たいと考えている。

それはぼくが原初的なアニミズムに回帰するということで、現代人であるぼくにはすでに難しいのかもしれないが、「人間対自然の直接的関係」を回復するということが目標である。革命revolution は回帰を意味する。そんなわけでぼくはひとり革命を行う予定である。

まあこんなことを書いていてもぼくは自然からメッセージを得ましたーなんていうことはこれまでになかった。ただ海をみれば心和み、木々のなかでは心の平静を得た。その程度のことだが、人間集団のなかにあるよりは真実に近いという印象があるのである。それは繊細な違いだが、crucialな変化がつねに微小な変化から始まるように、大地震が初期微動に導かれるように、個人的には重大な事実なのである。

マジかいな、ついに気が狂ったのか、と思われるだろうことをぼくは知っている。「ぼくは海や森と対話するのです」などといったらすぐに黄色い救急車で運ばれるだろう。しかし、「木々と語らう」「海に抱かれる」などの詩的表現はただの技巧ではなく真実を示すものであるとぼくは思う。

(自然と対話するといっても、読書は続ける予定である。ただ、少数の賢人たち以外の話は、神経質にシャットダウンしたいという気分だ。もう大衆には見切りをつけたい)



ルソーの「社会契約論」を読んでいると貴族による政治が人間社会にとって自然でありもっとも理想的と書いてあってそれはそのとおりだと思った。それならなんでフランス革命で貴族は排除され民衆による民主主義が台頭したのかが疑問だ。(と、思ってよく調べると国の財政難にあたり、貴族が課税に反発したことが市民の不満を買ったらしい。それは自業自得……)

ぼくは貴族による政治は妥当だと思っている。だって、ブラック企業で正常な思考を失ったサラリーマンや、一日十時間のテレビ漬けで白痴化したおばちゃんや、高齢化で認知症が入ったおじいさんに政治を任せることは、はっきりと危険だとぼくは思うからだ。

貴族の良い点は質の高い教育を受けていること、したがってふつうはある程度の倫理観とコモン・センスを持ちあわせていることだ。また、自分が政治的主体であるという当事者意識をもつことが可能ということである。彼らはふつう労働をしないし自由な時間を持ちあわせている。したがって十分な勉強をし、政治について熟慮することが可能になる。

日本でいえば農民に政治を任せるか武士に政治を任せるか、というところで、ぼくらが武士にもつイメージは高潔、清貧、寡黙、正義、といった感じだろう。ぼくらは農民に政治を任せたいか?武士に政治を任せたいか?と考えてみるともうこれは選択の余地がない。自然的に考えれば少数のエリートさんお願いします、ということになる。

ただ日本の現代の政治においても貴族制は生きているという説がある。たとえば歴代の首相や大政治家のほとんどに血のつながりがある、ということがまことしやかに語られている。これが事実だとすれば現代は民主制というより貴族制だが、だれしも知るとおり政治は腐敗している。

ルソーは「人民は腐敗することはありえないが、欺かれることはある」といった。貴族は欺かれることは少ないが、腐敗しやすいのだろう。そういえば、ルソーはこんなことも言っていた。「最良の政府は選挙貴族制であり、最悪の政府は世襲貴族制である」と。現代日本は民主主義の顔をした最悪の世襲貴族制であると言えるのかもしれない。

現代においては貴族は貴族の顔をしていない。表向きは平民のような顔をしている。このことの意味は、彼らはノブレス・オブリージュ、貴族的な責任を失った貴族であり、きらびやかな豚にすぎないのだろう。



いまネットでいろいろ読んでいたら、こんな話があった。

もう時間が無いので、結論だけ書きます。三澤さん。あんまり、こういうことで、神経をすり減らして悩まないで下さい。ご自分の目の前の読みたい本を、読めばいいのです。 それが一番いいです。
古典的な大作をそれなりに読んでいないと、自分は、大学知識人になれないのではないか、たいした論文は書けないのではないか、という、不安や恐怖は、それは、被害妄想というものです。そういう考えを捨てなさい。「自分は、大秀才でありたい。そうあるべきだ」と思うのは、20台の終わりまでです。人は、みな、それぞれに自分自身の能力を過信し、そして、うぬぼれ、やがて、そのこと自体に、自ら裏切られ、失意し、自分の頭がたいしたことは無かったと、自覚し、そのことをやがて受け入れて、そして死んでゆくのです。
今の私から見れば、丸山真男(まるやままさお)もたいしたことはなかったなあ、となります。
こんな国では、大秀才や大知識人は生まれようがありません。これは、いつもの私の自嘲癖の文ではありません。古典作品など、ほとんどの日本人が、いくら知識人、読書人を気取ってみても、真実のところは、いくらも読んでいないのです。そんな人生時間、生活時間は、どう探しても、見つかるわけが無い。私もそうです。18歳のとき以来、私には、満足な読書時間はもう2度とありませんでした。目先の生活に追われてあっと言う間に、自分の中年時代が終わりました。
ですから、もの書き言論人としての私は、すべてをやっつけ仕事でやってきました。締め切りに追われながら苦しみながら書いてきました。 もういいや、で「えい。や」と、「読んだことにして」、がりがりと、「該当箇所のようなところを、鋭く見抜いて」それで、古典大作の海を、自分なりに苦心して渡ってきました。 どんな人も本当はたいしたことはないのです。(副島隆彦:サイト

そういうものなんだろうか。なんだか、久しぶりに心にひびく言葉を聞いた。

まだ二十代の真っ最中だからわからないが、「人は、みな、それぞれに自分自身の能力を過信し、そして、うぬぼれ、やがて、そのこと自体に、自ら裏切られ、失意し、自分の頭がたいしたことは無かったと、自覚し、そのことをやがて受け入れて、そして死んでゆく」という帰結が当然のような気がする。ぼくもうすうすと自分の知性の限界を感じるときがある。

しかし、読書時間の確保はしたいなあ。二,三年くらいは本だけの生活がしたい。コリン・ウィルソンが処女作「アウトサイダー」を出版するまでは、昼は図書館で書物にかじりつき、夜は野宿して、その繰り返しだけの生活をしたというけど、この生活が、どんな金持ちの生活よりも贅沢に思えてしまう。

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