2.02.2015

人間関係について

太宰治というペンネームの「ダザイ」はDaseinから来ているという説がある。ダーザイン、英語ではbethere、日本語では現存在。



人間関係に理想はない。ぼくらが他者を求めるのは、本能だからである。

本能に理想はない。食欲に理想はないし、性欲にもない。本能的欲求は、まず「現存」する。

プラトンによれば、理想=イデアは観想のなかにある。つまり、現実には存在しない。しかし、本能は現実に存在する。よって、本能には理想はない。

あるとすれば、蛇の抜け殻のような形式的なことがらである。

食欲の形式的な理想……野菜の多い食事、腹八分目、伝統的な日本食、あるいは高級フレンチ、中華、懐石料理、または家族と食べるすき焼きや鍋料理など。

マアひとそれぞれだな。

しかし、腹を満たすこと、これがまず大前提なのだ。

性欲にかんしても何らかの形で解消する。本質的には、性欲はまず「在る」のであって、それに理想はない。自慰だろうと、ブスだろうと、美人だろうと、ひとまずわれわれは解消を迫られる。

同様に、ぼくらがひとを求めることもまた本能である。なぜなら、ぼくらの体重が数キロしかなく、甘いミルクの匂いを漂わせていたときには、母親がどこかへいくたびに泣いて抗議したに違いない。他者が必要なのである。

ぼくらは生まれたときから食事をし、排泄し、眠り、そうして、他者を求めた。乳児期には性欲こそないものの(フロイトを否定するなら)、ぼくらは大人になったいまでも食べ、排泄し、眠っている。どうして他者を求める欲求が、本能ではないと言えるのか。



マズローの欲求段階説。
頂点の上にある自己超越はときどき無視されるが、
これこそマズローが力点を置いたところなんである。


このピラミッドはけっこう疑問符のつく代物なのだが……、便宜上もってきた。

この図の上下矢印を見ると、物質的欲求が「本能」であり、精神的欲求は「理性」なのだな、と思うかもしれない。

だが実は、マズローが言うところによれば、全部「本能」なのである。つまりぼくらには物質的本能と精神的「本能」があって……。他者を求めること、自己実現を図ることもまた、本能の一環ということになる。

つまりぼくらが聖人君子のような善人を見たときに、「彼には本能がない」「彼は本能を超越した」というようなことを思うかもしれないが、その反対で、彼は本能にきわめて忠実である、というのがほんとうなのである……。

「本能」が全ての知性のうちでもっとも知性的である。(「善悪の彼岸」)

存在と本能の関係は、興味深い。ぼくらは「在る」。在るところの人間は、かならず本能的欲求に束縛される。在ることと本能は同一のようにも感じる。

在るときのぼくらは、つねに肉体をともなう。よく、肉体と精神は切り離されて考えられてきた。それは本能と理性が切り離されたようにである。しかしぼくは思うのだが、肉体と和合しない精神などないし、本能なき理性もないと感じる。

存在、つまり肉体=本能が大前提で、そのうえに浮かぶボートのようなものが精神、理性であると考える。ボートが転覆しようが、大海はいたって平気なのである。これはけっきょくは、無意識と意識の関係でもある。

長々と書いた。結局ぼくは何がいいたいのかというと、他者を思いやること、他者と良好な関係を築くこと、これは本能によるものであって、理性の領域ではないということだ。


ぼくらはこう考えるかもしれない。学校の教育がなければ、集団生活を送ってこなければ、他者をおもいやる心は育たない、と。つまり社会性とは、教育によって育まれるものである、と。

たしかにこれは一面では真実である。狼に育てられた少年は、服を着ることを拒み、喜ばしいことやおもしろおかしいことがあっても笑うことがない。ひとにある程度の教育が必要なことも事実である。

では教育とは何なのか。


猫が巧みに狩りをするのは親猫に教えられたからである。子猫は、最初は弱ったねずみを与えられる。しだいに、元気なねずみが与えられる。そうして子猫は狩りを学んでゆく。

それでは、猫の狩猟は理性的な行為なのか?いや、だれもそうは思わないだろう。猫に理性はないのだから。

となると、教育は理性の領域にあるのではないということができる。つまり、教育がまずもって本能領域に属するし、本能によって教えられる社会性もまた本能領域に属するということである。

ぼくらは、他人とうまくコミュニケーションがとれない子どもを見ると、彼をどうにかして救いたい、と思う。彼を地獄のような孤独から解放したい、と思う。おそらく、この欲求は本能だろう。

ある民俗学の本を読んでいたら、「妊娠した母親が胎内の子どもに語りかける」という風習は、あらゆる民族に見られるのだそうである。つまり日本でもヨーロッパでも変わりはないし、エスキモーでも未開部族でも、「母親は胎児に語りかける」のである。

ぼくらは思っているよりも、本能にしたがって生きている。というか、理性のはたらきを見つけることが難しい……。いったいひとはいつ、理性的になるのだろう?これがわからない。……理性とはゆがめられた本能ではないか?というひとつの疑問。


ぼくは本能を礼賛したいと思う。つねに本能は正しく、美しいからだ。理性は邪魔者だとおもっている。おそらく、教育は必要だが、学校教育なんていうものは不要だろう。宗教的な教育も不要だ。人間は、そのままで完全である。反対に、形式的な教育によってゆがめられることの方がはるかに多い。

マズローの言う、優れた人間の社交関係とはどんなものだったか。以下に記す。
心理的に健康な人間は高度に独立的であるが、同時にまた人間関係を楽しむこともできる。彼らは社会のもっとも個人主義的なメンバーであると同時に、もっとも社会的で、友情に満ち、愛情深いメンバーでもある。
他人が友情をあたためているのに彼らは他人を必要としないという理由から、彼らは縁遠い孤立した存在と他人からときにはみられる。(「マズローの心理学」)
これを書いて思ったのだが、思想的な深みにはまった「嘔吐」のロカンタンさんも似たような状況にある。
すべてこういう連中は自分達の意見をのべ、自分達が同じ意見であるのを幸せにも認めることにときを過ごす。みんなが同じことを、みんな一緒に考えていることを、ああ、いかに彼らが重要視していることか。それは彼らの間を、目の据わった、自分の内面を見つめていることがあきらかな、そして彼らとはもうまったく意見が一致することのないひとりの男が通って行くときに彼らがどんな顔をするかをみれば、充分わかることだ。 
知的に深化していくことは、孤独になることなのだろう。ロカンタンはマズロー的な健康人とは違ったものだとは思うが、マズロー的な人物が天使的であるとすれば、ロカンタンは堕天使的なもので、つまり類縁なのかもしれない。

おそらくあらゆる芸術や思想は「なりそこない」の堕天使さんが築き上げているのではないか?「心理的に健康な人間」は、おそらく進歩的な哲学や芸術に興味はないだろう。

とはいえ、行った限りもどってこない「狂人」もまた、芸術に貢献することはできない。

確かに<狂人>と芸術家(および思想家)のいずれもが、意識と身体の深層の最下部まで降りていって、意味以前の性の欲動とじかに対峙し、この身のうずきに酔いしれる。しかし後者は、たとえその行動と思想が狂気と紙一重であっても、必ずや深層から表層の制度へ立ち戻り、これをくぐりぬけて再び文化と言葉が発生する現場へと降りていき、さらにその欲動を昇華する<生の円環運動>を反復する強靱な精神力を保っている人びとなのではあるまいか。(「言葉・狂気・エロス」/丸山圭三郎)

狂人と芸術家はたしかに親戚ではあるのだろう。やはり、人間は強くなくてはならない。狂気に負けてはならないってこと。

狂気と本能の関係が気になってきた。ぼくらが眠っているときに見る夢、あれはなんなのだろう。夢のなかにおいて、ぼくらは空を飛ぶこともできるし、殺されることも経験できる。時間や空間を超越する。理性的には支離滅裂である。しかし、ある意味で、筋は通っている。別の公理がはたらいている。だからフロイトは夢分析を治療に応用したのだし、夢占いが案外当たるのである。

あれが本能のカタチなのではないか。ぼくらが寝ているときに、おそらく理性などないのだから。まあこれを書くとまた長くなるので温めておこう。

理性と本能について:このときは、理性と本能の二項対立を信じていた。しかしいまでは、理性の存在が怪しくなってきた。)



最近はまあだれも読まないだろうことばかり書いている。しかしこうして書いているときぼくは楽しく充溢しているのである。

だれも読まなくてけっこう……。だれもが好んで読むものに価値はないと思っている。鼻持ちならない、くだらない、嫌悪感をもよおす、相容れない読み物が目標である。


「金魚鉢と猫」小原 古邨

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