2.20.2015

民主主義への憎悪

大衆が正しいとき、それはファシズムなのではないか。

というようなことがぽんとあたまに出てきて、澄んだ冬空のもと散歩しながら、こねくり回して考えてみると、すこしいい考えのように思えた。

ぼくには、民主主義というものは、人間にとって不自然な体制のように思える。大衆は、自らの集団を導くようにできていない。

現に、日本の民主主義はどうだ。まるで機能しちゃいない。選挙にいっているか。ぼくらは政治のことを議論するか。ぼくらには政治的判断をする十分な判断材料を与えられているか。ぼくらがだれかの政治的主張を聞くとき、耳を閉ざしていないか。

そう、だれも、政治なんて、関心はないのである。先の衆院選でわかったとおり、ぼくら日本人の半数は、投票にすらいかない。あれだけ「選挙にいこう」とキャンペーンしても半分は家で寝転がっているのである。投票した人間にしたって、ほんとうに日本の将来を考えているひとというのは、ごくわずかである。

授業中でも読書中でも邪魔してくるあの選挙カー。なぜあんなバカげた代物が街を走り回っているのか。「あんなことをしても、不興を買うだけだ、俺はあいつには絶対いれないぞ……」と思う人が多いだろうし、ぼくもそう思うのだが、ああいう行為が「選挙活動」として広く行われる以上、たぶんぼくらの予想以上に「効果的」なのだと思われる。

ようは、ああいう幼稚な戦術が重要になるほど、大衆が持ちあわせている政治的主義は脆弱だ、ということなのである。大衆がだれに投票するか、という決意は、何回も名前を叫ばれると容易にゆらいでしまうレベルのものなのだ。

ぼくはこのことをもって、大衆をバカにしたいわけではない。いや、大衆ははっきりとバカなのであって、それは決して悪いことではないとぼくは言いたいのだ。そうして、民主主義という制度がでたらめだということを言いたいのだ。

本来は大衆は正しくあることはできないのである。大衆というものは、それだけでは、脳を失った人間に等しい。大衆は、導かれることはできても、導くことは決してできないのである。

これは当然だ。あらゆる動物集団がそうであるように、権力は少数の有力者に集中するようにできている。現に、ほとんどの会社には社長があり経営者がある。だから、民主主義社会のように、すべての人間に集団を左右する権利があるという構図は非自然的であり、奇妙である。

民主主義のような制度は、少数だとたしかにうまくいく。ルソーも「小国であれば民主主義は適している」と述べており、三十人程度のクラスであれば、投票で事を決める方が全員納得するし、結果的に正しい決定を得ることが多いのだ。

ぼくも小学生のときは行事などで、投票で物事を決めた(決めさせられた)。この形式的な民主主義は「少数」で「よく議論した」上で投票するのであれば効果的である。ぼくも消防のちっぽけな頭脳で「これは大変優れたシステムだ」と認識した。しかし、これが罠だった。

この投票制が「多数」で「ろくに議論もなく」行われたらどうなるのか?

三十人のクラスで行った投票と、一億人以上の日本国有権者が行った投票で同じ効果があらわれると考えるのならそれは狂気である。おそらくこの虚偽に大部分のひとが惑わされている。

一億人の有権者はなにを基に投票するのだろうか?彼ら各々が、民主制の責任と理想を胸に抱き、立候補者の主張を比較吟味し、自己の利益と国益を考慮し、適性な投票を行うだろうか?

もちろんそんなことはない。そんなことをしている人は有権者が1000人いれば1人いればいいほうだ。99.9%の人間は、雰囲気で決めるのだ。テレビで言っているから、選挙カーでがんばっていたから、うちの地区ではあの人に入れるから、投票する……!

この程度なのである。この程度なんですよ。民主主義って。

予想するしかないけど、たぶん外国も似たようなもんでしょう。オルテガが「大衆」の痴愚を警戒したのが第一次大戦後のスペイン、ル・ボンが「群衆心理」を批判したのが十九世紀末。

ぼくは思うのだけど、結局人間集団にとって理想的な社会とは、民主主義なのではなく、少数の為政者と、それ以外の大衆という関係なのだと思う。これは王政とか寡頭制を意味する。

ぼくは全人類が平等であることを望んでいるけれども、政治的に平等であることが正しいとは思えない。人間には、リーダーが必要だ。それは、生まれもってのリーダーであって、選挙カーとか、メディアによって決まるものではない。



民主主義のもうひとつの見方。

民主主義とは、大衆のもつルサンチマン的憎悪によって権力者を血祭りにあげる制度である。フランス革命におけるギロチンである。つまり、権力者と大衆を切り離す制度なのである。それは脳と四肢の断絶を示しており、国家にとっては毒なのである。

民主主義は、集団にとって必要となる「頭脳」を人体から切り離すイデオロギーであった。こうした仕組みは、国家の弱体化を招いた。頭脳を失った人体はあちこちにぶつかり、傷ついた。

ぼくらは北朝鮮を独裁者が支配する凄惨な国だと思う。しかし、プロレスと同じで、世界にもヒールは必要なのである。北朝鮮はだれが支配しているか?民主主義のイデオロギーは彼らによって維持されている、と考えることもできる。これは陰謀論なので、もう進めない。

冒頭で、民衆が正しいとき、ファシズムなのではないか、と書いた。このことの意味は、民衆が正しく政治に関与することなど不可能であり、もし可能であるとすれば民主主義が高次に結晶化されたファシズム政治ということである。これは、ヒトラーがドイツ国民の民主主義によって選ばれたことに証明される。

ファシズムにおいて、民主主義は民主主義を超越し、国家と大衆が同化し、強大な威力をもつことになる。それはかつての日本軍が異常な強さを見せたことと関係する。世界中がファシズムを監視し撲滅しようとするのも、パワーバランスを乱すほどの大国の存在が不都合だからだ。

ぼくは政治が嫌いだから、ただ政治から離れていたいと思う。だから、できる限り公平な目で政治を見て、これを書いている。ぼくには今後の日本のことがわからない。明確なことは、いまの日本はファシズムに向かっている。ただ、首相の能力の低さにより、これは失敗するだろう。しかし、ファシズムのもつ利点、国力の増強という点で失敗することは、不都合なのか正しいのか。これがわからない。

まあ、だれも読まないだろう。ちょっとすっきりした。寝る。

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