2.03.2015

王さまは裸だ

ルソーの晩年のエセ―を読んでいたらたいへん悲しくなった。なんて純朴な人間だろう、そしてそれゆえにつらく孤独な人生を歩んだのだろう。

ルソーは反権力的な思想をもっていた。教育論として有名な「エミール」では王族や貴族をこれでもかというくらい批判している。市民に平等や自由を与えるのでないかぎり、政府なんてない方が良い、と。それだから、世の為政者たちに大いに嫌われた。「エミール」は発禁処分になった。

ルソーはそれから、迫害されつづけた。興味深いのは、スパイにつきまとわれていたという記述である。権力者の手先であるスパイが、市民たちの間でルソーの悪評を広め、そのためにルソーは村八分的な扱いを受けていたとされている。

なるほど晩年は被害妄想にかられていたのか、天才に妄想はつきものだな......とぼくは思ったが、実際にスパイ行為があった、という記述がありびっくりした。現代風にいえば集団ストーカー的な嫌がらせである。それが当時のフランスからあったのだな。

ルソーは本来は明るく社交好きで、街のひとびととの交流も好きな人間だった。それが、他者と接するときもつねに恐怖がつきまうようになった。

彼は牢獄に入れられたわけでも、毒ニンジンを飲まされたわけでもないが、おそろしく残酷な措置をとられた人間ではあると思う。結局、彼は、人間不信に陥り、自分しか信じることができなくなった。

全体主義的支配は、統治形式としては、この孤立だけでは満足せずに私生活をも破壊するという点で前例のないものである――全体主義的支配はlonelinessの上に、すなわち人間が持つ最も根本的で最も絶望的な経験の一つである、 自分がこの世界にまったく属していないという経験の上に成立っている。(ハンナ・アレント)

迫害されたといえば毒ニンジンの杯をあおったソクラテスである。昨日ちょうどソクラテスの講義動画を見ていた(たいした動画ではないので埋め込みはしない……)。

そのなかで、こんな発言があった。
「『偉くて有名なひとびとはほとんど知性を欠いている』とソクラテスは言ってしまった」
「これはいっちゃいかんですねw 本当のことはいつでも言っちゃいけないんだ」
「現代でもそうだけどあまり本当のことを言っちゃうと排除されちゃうんですね」
「まあソクラテスは真実のひとだから本当のこと言っちゃったんですね」

ちょっとまあぼくが驚いたことを聞いてください。

「ほんとうのことは言ってはいけないのか!」

と驚いた。ほんとうに、驚いた。ぼくは純粋すぎた……。

思えば、言論の自由だとか、思想の自由というものは、しょせん「建前」でしかない。「王さまは裸だ!」といえば、現代でも処罰は免れえない。

「天皇は○○○で○○○○○○○だ!」とは思っていても、言ってはならないのだ……。権力はあまねく存在している。庶民に自由な発現など、許されるわけがないのだ。

ソクラテスは司法によって殺害され、ルソーはいわば政府の手先であるマスコミにバッシングされるような形で村八分となった。昔から正しい思想をもった人間はこうなるようだ。

まったく思想が自由になりすぎると為政者にとっては我慢ならないものになるらしい。ぼくも少しく考えていかなければならないようだ。

このブログでは、つねに正直に書いていこうと思っているし、それに、ぼくがルソーやソクラテスほどの影響力をもつかといえば、可能性はゼロに等しいのだが……。それにしても、権力の力を見せつけられると、やはり嫌なものである。

ぼくの小学校のときの教師は、よくこういっていた。彼女から学んだことは更年期のおばさんはオソロシイものだ、ということだけだと思っていたが、この言葉は良い教えだった。

つまり「お口にチャック」。


ごく少数の者たち、たとえば英雄、愛国者、殉教者、偉大な改革者、それに人間の名に値する人間などが、肉体や頭脳ばかりでなく、良心をもって国家に仕えており、だからこそ彼らの大部分は国家に抵抗せざるを得ないのだ。そこで彼らは一般に、国家からは敵として扱われる。賢者は、ただ人間として役に立つだけであり、「土塊」となって「風穴をふさぐ」ことには堪えられない。そんなお役目はせいぜいのところ、自分が死んだあとの死体にまかせておけばよいと思っている。(「市民の反抗」ソロー)



先にルソーを反権力と書いたが、そうではないかもしれない……。

フランス革命的な「権力は悪だ!たたきつぶせ!」というようなノリとはまた違う。おそらく、「反抗」ならまだ許されるだろう。権力があるところに反抗があるから。飼い犬もときに手を噛む。このことを知っていた徳川幕府は、人為的に反乱を起こし、市民のガス抜きをしていた。結果的に「太平の世」である。

実は権力がもっとも忌み嫌うのは、「侮辱」である。「侮辱」は、犬と飼い主をつなぐリードを切ってしまうことだからだ。飼い主を犬の立場に引きずりおろすだけではない。同時に、犬を人間の立場まで引き上げる行為である。ソクラテスやルソーはこれを行った。

侮辱があるところに人間の目覚めがある。人間を奴隷的立場から解放するのは、武力ではなく、「気づき」なのである。これが為政者のいちばん怖れることなのだ。

だから特権階級の権力をないものとして扱う、権力を迷妄だとしたルソーは反権力者だったわけではない。反権力とは、権力を認め、それに反抗することだからである。それではなんていえばいいのだろう。

と考えてみてもよくわからない。ボキャ貧で……。

0 件のコメント:

コメントを投稿