2.04.2015

「死にたい」という感情

「ああ、ぼくはねえ、きみ、心の底で、年をとることにひどく好奇心を持っているんですよ。青春なんてごまかしです。まったく新聞や読本でもてはやされるごまかしです。人生の最も美しい時だなんて!そんなばかなことが!老人こそ常にぼくにはるかに幸福な印象を与えます。青春は一生の最も困難な時代です。たとえば自殺は、年をとってからはほとんどまったく起こらない。」(「春の嵐」ヘッセ)

朝六時に起きるつもりが朝十時に起きる。思った以上に日々の生活が負担になっているようだ。ぼくの生活もショートしかけているのかもしれない。睡眠の異常は精神の警告であることが多い。苦いチョコレートと、ココアを飲む。

友人は希死念慮におそわれているが、ぼくの方は死にたいとはひさしく思ったことがない。これはぼくの精神において独特の能力だと思う。

ぼくの人生はずっと不幸であった。もっとも不幸な中学、高校時代や大学生活の初期をふりかえると、死んでもおかしくない状況にあった。もう絶対戻りたくないな、と思う。

しかしぼくはそれでも死ぬということを選ばなかった。死ぬという発想がなかった。ぼくは昔から、これだけ辛いのに、自殺しようという気持ちにならないのが自分で不思議だった。まわりの友人は、自殺未遂やリストカットをしたものだが、ぼくの方はそんな衝動にかられない。

それでも精神は確かにボロボロに傷ついていたから、神経症が発症した。そのせいで、またこのくだらない日本社会の学級村では、ずいぶんつらい思いをした。

神経症と鬱は類縁にあるのだと思う。つまり躁鬱病はまさしく循環の病気で、鬱病と躁病を繰りかえすが、神経症のほうはかえって小さな異常状態を日常のあらゆるところに永続させる。

鬱病の人間は、症状がないときには、いたって健康的な精神を見せる。彼は完全のように思える。社交的で、愛にあふれ、雄弁闊達で、仕事もたいへん有能である。しかし、あるところから、だんだんおかしくなってゆく。かれは死と絶望のなかに沈みこむ。そうして、深みにはまった彼はなかなか帰ってこない。一定の期間を過ぎると、彼はようやく回復して、いままで通りの姿を見せる。いわば彼は、異常と正常を循環する。

神経症の人間は、日常のなかにおいて異常行動を見せる。彼の異常行動はつねに日常の中にある。つまり手を洗い続けないと気がすまなかったり、ガスを止めたか気になって何度も家に帰ってしまう、など。このように、少しの神経の昂ぶり、不条理な行動が日常を支配する。

しかしかれの症状には躁鬱病のような変動はない。急激に症状が進行するようなことはない。ただ、彼は日常的に異常行動をしめすのだ。それは永遠のように思える。実際、神経症を治すことは非常に難しいとされている。有効な薬もないし、唯一効果的とされる治療法は、たいへんコストがかかるのでほとんどの病院で採用していない……。だから彼はふつう死ぬまで異常行動を繰りかえす。

こう考えてみると、鬱病者、神経症者、どちらもいたく繊細な精神をもっているのだと思う。しかし鬱病が「憂鬱」を長いあいだ蓄積して一気に解放するのにたいし、神経症は日々の生活のなかで表出させ、小出しにつぶしていっているのだ、とぼくは考える。

(ぼくはまだ神経症をわずらっているのです。つまり、このブログも、狂気の小出しなのだ……。)

鬱病


Eleanor Davis

日本では鬱病がとくに多いのだが、その根底には、「憂鬱は間違ったことだ」という考えがあるからかもしれない。つまり屈託なく笑い、仕事をこなし、友人多く、家族にやさしいという理想的な人間像にしばられているのだ。彼にとって憂鬱とは「病気」であり「異常」なのだ。

だから周到に憂鬱をつつみかくしてゆく。だれの目から見せないようにする。そうして、しまいには、自分の目からも隠していく。しかし、感情を抑圧したところで消えてしまうものではない。禁欲的な聖職者がかえって異常性癖をもつように、どこかで漏出する。

ただ鬱病の人間は強い精神と注意深さをもっているのだろう。包み隠して、溜めこんで、ほんとうにぎりぎりのラインまで、憂鬱を隠しこむ。そしてそれはある時点で、限界を超えたダムのように決壊する。

憂鬱は間違ったことではない。仏陀の言うとおり、人生はその本質からいって不幸なのだから、憂鬱になることは自然だ。それなのに、テレビをつければひとびとはつねに幸福である。また、学校教育でぼくらは幸福を目指し、追求するように駆り立てられる。社会全体が、不健全なイデオロギーをもっている。

(ドラマやアニメでは、登場人物は確かにいったん不幸に陥ることもあるが、必ず彼は克服してゆく。「努力」や「友情」によって。嫌なことだ!バッドエンドは、ニュースの犯罪やテロのなかにしかないのだ。それこそが真実なのに。)

そのためにぼくらは受験勉強をがんばり、出世競争をがんばる。そうして不幸を負け組たちに押しつけ、押しつけ、自分たちは完全な幸福を得たように思う。

しかし、ひとが人生に勝てることがあっただろうか?そんなことはない。人生の勝者なんて存在しない。人生は不幸であり、人間は敗者なのである。

だから、たしかに、バカな人間ほど幸福である。ただ器用なだけのバカが、この世でもっとも幸福に恵まれた人生を歩む。なにも見えちゃいないからだ。そうして、聡明な人間ほど人生を深く探求するのだから、かれはあるところで不幸にぶつかってしまう。

幸福な人生など存在しない。人間の到達しうる最高の人生は、英雄的人生である。(ショーペンハウエル)

だから乱暴にいってしまえば、この社会にあっては、精神を狂わせない人間の方が愚鈍なのである。である……。

ぜんぜん鬱病の説明になっていないな。

上で語ったのは、社会によって作られた鬱病についてである。遺伝的な鬱病、器質的な鬱病もあるだろうと思う。ほんとうに、精神病は、だれにもわからないのだ。いまのところ、世界中の科学者は、精神における錬金術師の状態である。だからぼくのような人間が適当なことを書けるということだ。


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