2.06.2015

講義恐怖症

最近の自分をふりかえってみると、だいぶ調子にのっていたなと思う。うわついてふわふわしたことしか書けていない。

ぼくはいま、たしかによろこばしい状況にあるのである。そろそろ、大学という組織から抜けだすことができるという希望もあるし、ごみごみした東京におさらばできるという状況にある。

ただ、ぼくの精神がはっきりと自由になったと感じるのは、講義というものがぼくの日常から消え去ってからだった。ぼくは講義がたまらなくいやだった、と思う。だから出席をとればそうそうに講義室を出ていったし……可能なかぎりは貴重な睡眠時間にあてていた。

なにが嫌かというと、あの強制的な環境、自由のない環境がいやだったのだとおもう。まえに立つ先生はえらくて、聞いてるぼくらは彼のようになることを志向させられる。メールの確認も、おしゃべりも、コーヒーを飲むことも、足を組んだり、頬杖をつくことも、好ましくないとされる。

ふりかえるとぼくの生活は講義、講義でそまっていた、二十年間も長いあいだ、講義というものにしばられつづけていた。いったい机に座って板書したり話を聞くことにそこまでの意義があるのだろうか?ぼくのような人間は、ひとり自習するときの方がずっと有意義にかんじるのだが。


とはいっても、これはドンキホーテ的な挑戦である。ひとが講義を受けはじめたのはおそらく何千年もまえからで……そうして、いまでも全世界の学生諸氏が講義を受けている。講義という構造はひとつの承認されたコモンセンスなのである。


ボローニャ大学における1350年代の講義風景を描いた写本挿絵

この挿絵を見ていたら笑ってしまった。右手前の寝ている奴が、ぼくである。当時から講義ってのは退屈だったんだなあ……。ボローニャ大学はイタリアの世界最古の総合大学とのこと。日本でも江戸時代から寺子屋があった。

こうした教育体制のなにが嫌いかというと、自然的でないのだと思う。自然栽培に対する工場生産のように感じる。たしかに効率性や生産性でかんがえると、技能知識をみにつけた完成品がたくさん得られるのだろうけど、なにか人間と人間の関係を冒涜したような印象をみつけてしまう。

ぼくの高校は底辺校だったので、体育教師がなぜか歴史や国語をおしえていた。そのような教師の授業のときは、みな、肩肘をぴしっとはって熱心そうに授業を受けていた。ところがぼくはいつもどおり寝てしまったので、授業の最中にもかかわらず、「ちょっとこい」と廊下に呼びだされた。

そして、体重100kgはありそうな巨漢の教師に、なんと壁ドンをされたのである。そうして、「おまえは俺をなめているのか」と至近距離ですごまれた。もちろん、「ちがいます」と言うしかない。さんざんにらまれ、恫喝されて解放されたときは、すこし涙目になった。ほかの生徒たちは、もどってくるぼくの表情を興味深げにみた。

上流階級のひとはびっくりするかもしれないが、底辺校とはこんなものなのである。

この監視という要素がいやなのかもしれない。大学の講義はもっとずっと楽で自由だったが、それでも監視の目は感じていた。「しゃべっている奴は出ていけ!」という教授がいる。これはいいと思うが……。寝ていたりやスマホをいじっている程度で注意する教授の講義は、非常に嫌だった。

なにが嫌かというと、一方向的な強制性がいやなのかもしれない。「スマホをいじっても、いいじゃないか。お前の講義がつまらないのだから……」とはけっして言い返せないのだ。学生証の提示をさせて即刻不可というパターンもある。この対等ならざる関係がいやだ。

ほんらい、大学っていうのは、大人と大人の関係であって、師弟関係じゃないでしょう。授業態度にケチをつけるのなら、講義態度にケチをつける権利もある……そうじゃないのかな(だいたい、つまらない教授にかぎってこういう上下関係をあらわにして見せつける)。

この根源をたどると、教授が単位を与えて、学生は単位をもらうという、関係性にあるのだと思う。やはり、ここにも権力的関係があるのだ。教授による生殺与奪の掌握だ。ぼくらは教授をえらいと思わなければならない。へりくだっておべっかを使わなければならない。なぜなら、彼らがぼくらの生活を握っているから……。

出席をとらない講義をする教授はえらい。試験の出来だけで成績を決める教授はえらい。ぼくは彼らを尊敬してやまない。

まあ話が長くなったが、ぼくは講義がなくなってからというもの、精神的に解放されて、きわめて清涼な気分をあじわっている。おそらく講義の根底には権力の結びつきがあったからなのだろう。

ぼくはもうだれにも生殺与奪を握られたくないし、反対に他人になにかを強制することも好まない。国家や、企業や、宗教や、家族に、ぼくの生命や思想をコントロールされたくないのである。ぼくはくびきを逃れて自由になりたいのである。そのためなら貧乏でも、孤独でも、それはかまわないのだ。


また,オペラント条件づけの原理から考えても,出席確認による出席の維持は本人にとって報酬となるものによる行動の維持(正の強化)ではなく,嫌悪刺激(この場合は失格,落第などの結果)をその行動によって回避できること(負の強化)による行動維持である.負の強化により維持される行動は,一般に本人にとって不愉快で自発性をともなわず,また消去抵抗(注10)が弱いので強化がなくなると(この場合は出席を取らなくなると)すぐに消去する.つまり,出席確認によって維持されている出席は本人にとって不本意で不快であり,確認しなくなれば即座に出席しなくなってしまう恐れがある.調査結果ではそうした傾向は明らかになっていないが,自由記述に「おもしろい講義で出席を取られるのはまだがまんできるが,くだらない講義に出席で縛られるのは非常に不愉快」というような否定的な感情反応が多くみられることは重要である.
実際にはその大学や学部のカリキュラムや講義が出席を維持できないレベルのものであることをまったく反省しないで,「いまの学生は強制しないとサボる」「学生が自発的に講義に興味をもつなどということはない」などと学生にその責任をおわせ,厳しい出席評価によって学生を強制的に出席させるようなことでは,大学教育は堕落するばかりである.自由記述の中にも「自分の講義に自信のない教員ほど出席が厳しいのでは」「出席とらないと誰も来ないのが怖いのでは」と,教員の本音をきちんと見抜いている意見がたくさんあった.学生は講義から教員の実力をきちんと判断している.小学校や中学校のように教員と生徒との発達段階が明らかに異なっている場合ならいざ知らず,大学では教員も学生も「おとな」であり,教員よりも学生の知的水準が高いこと,教員のレベルの低さが学生に見透かされていることは,いくらでもありうる.
 学生を教室に呼び戻すために必要なのは出席確認などの姑息な方法ではなく,学生がそこに価値を見出せるおもしろくて興味のもてる講義を展開するように教員が努力することだけである.それを理想論と退け,学生のレベルが低いだの,最近の学生は意欲がないだのと嘆き続けるだけなら,大学教員という職業を今後も続けることにどんな夢がもてるだろうか. (「講義における出席確認と出席の維持」渡邊芳之講師

なるほど、おもしろい……が、こんな論文書いて干されないのだろうか?

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