2.22.2015

重さと軽さについて

そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか?(クンデラ)

さいきんは自分のような人間にも居場所ができた。ぼくには友人らしいものができ、屈託のない冗談を、交わすことができるようになった。

ぼく自身もたしかに変わったのだろうが、周囲の人間たちのほうも、ずいぶんと変わったと思う。「リア充」のようなひとあたりのいい(しかし軽薄な)タイプの人間を崇拝することは辞め、ぼくのように、口べたで陰性な人間に少し関心がいくようになったようだ。

このような変遷は珍しいことではなく、昔のある時期も、陰性の人間に焦点があたることがあった。だから太宰治はあのアンニュイな顔写真を好んで使ったのである。なにか厭世的で、思索にふけり、神経質そうな写真だ。

アンニュイ
太宰治は精神が不安定になりがちな思春期の子どもたちによく好まれる。自殺だとか生きることのつらさ惨めさとかを巧みな文学表現で描いているのだから、共感できるのだろう。

意外と太宰は、大衆向けのキャッチーな作品を書いたように思う。けっして宮沢賢治のような、真の隠者ではない。あの時代は、沈鬱な作家が受ける時代だった。そのような空気があった。

これは少し前の日本とは対称的である。直近の日本においては、「話術」に優れていることが人間の価値を示した。それはお笑いブームに象徴されるように、ものごとをまじめに捉えず、茶化して遊ぶような、賑やかで、楽しい(そして空疎な)人間が好まれた。職人気質の俳優だとか、まじめな文化人といったものは排除されるか、屈服を強いられ、発言は彼らの笑いにかき消された。

お笑いブームだけでなく、日本全体に、そういう空気があった。現実に、陰性の人間であるぼくは友人も恋人もいない冬の時代を過ごしたし、就職活動においては実能力よりも「コミュニケーション能力」のようなものが重視され、企業人は「プレゼン力」を求められ、読書や芸術のような趣味は評価されず、学生時代に起業したとか、サークルでリーダーシップを発揮したとかが重要になるような、そういう空気が醸成されていた。

流行とは、流れゆくものと書く。あとになって考えれば、なぜこんなものが?というようなものが、持ちあげられたりする。時代は変わった。比較的軽薄なテレビ局であるフジテレビが没落し、やや堅苦しいテレビ朝日が現在は首位なのだという。これも、「軽さ」と「重さ」の逆転といえるだろう。

現在はある程度バランスのとれた時代であると思う。少し「軽さ」一辺倒の時代から、「揺りうごかし」がきている。

この理由を考えると、やはり先の地震と、それに続く原発事故に原因を求めることができると思う。これは説明するといくらでも書くことが可能だが、簡単に言えば、メディアへの強い不信、すなわち饒舌な人間への不信というものがひとびとの心に深く根付いているのだろう。

だからぼくのような口数の少ない人間の情報へ関心が集まり、そうしてぼくは友達が多くなって、日常をちょっぴり楽しく快適に過ごせている、というわけである。

精神病質者はつねに存在する。しかし平時はわれわれが彼らを鑑定し、一旦緩急あるときには彼らがわれわれを支配する。(「天才の心理学」/クレッチマー) 


ファッションの変遷

実際のところ、電通などの広告会社が示すとおり、流行はある程度コントロールできる。広告媒体による流行創生の結晶がバブル期であったと思う。

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バブル期のファッション

この八十年代のファッションが奇異に感じさせるのは、文化と切り離された商業的象徴だからである。ミリタリーコートとか、登山用のジャケット、あるいはブリティッシュ・トラディショナルやヒップホップ・ファッションといったものは、バックグラウンドとなる文化が鮮明である。それらのファッションは文化や歴史に根ざしたものであり、したがって流行するのもわかるのだが、八十年代のファッションはまったくの根無し草であり、背景も意図もわからない。

ファッションとは消費の象徴であり高度に商業的なものであると思う。なぜなら人間は夏はTシャツ、冬はユニクロのダウンを着ていればまず快適なのである。そこでいかに思考をねじまげ、商品を魅力に思わせ、買わせるか、という点に、企業努力がはっきりと表れる。

スタジャン……
少し前、再びバブル・ファッションが流行る、とマスコミが喧伝した。そしてその流行創生はすこし成功したと思う。ぼくの大学でも「なぜこんなものを?」というような服を着ている人がいる。ただ、この流行は小規模に終わり、そしてすでに過ぎ去ったのではないか。前述したようなバブルファッションの欠点もあるだろうし、もう広告メディアの影響力が弱まり、流行を牽引するような時代でもなくなったのだろう。

ただ、いまはマトリックスのアンダーソン君のようなロングコートが流行っているようで、こちらは成功しているようだ。短身の男が着るとちんちくりんでかっこわるいのだが、ある程度たっぱがあればかっこいいと思う。ただ、やはり、大学生がロングコートを着ているというのは奇妙である。


 
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大正時代のファッションを現代に再現/当時の写真
ある外国人が、経済成長期の日本を訪れて、「昔の日本人女性はたいへん魅力的だったが、ジーンズを履くようになって残念だ」と言ったそうだ。ぼくも同様のことを思う。

大正時代のファッションがたいへん優れているように感じる。モボ、モガのファッションは、いまでも通じうる。というのは、単に古典的な服装というだけでなく、和洋のバランスがいい中庸を得ているということである。このように、時代の移り変わるときに、もっともすばらしい文化が発露するもののようだ。そうして、好ましいファッションは決して長続きするものではない。女性の美しいスカートはすぐにもんぺに変わってしまっただろうし、そうでなくとも扇動され歪められ、バブルのようになってしまうのである。

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