2.08.2015

Opmistic Zack

純潔という最高の本能は、これに取りつかれた者を一個の聖者として、もっとも奇異な、かつ最も危険な孤独化のうちに置くのである。

今後自分がどのようになっていくかを考えると楽しみだと思う。

いまぼくは静かな満足のうちにある。最近みつけた喜びの源泉は、数ヶ月前に見つけた「自己」というものであり、もうひとつは「自然」である。このふたつが、ぼくの日常をゆたかにあたためてくれるので、ぼくはもう何にも不満をもたなくなった。

世の中の小説家は、たとえば芥川賞のような賞をとると大いに喜ぶものらしい。「才能ある新人」が「名士たち」に「選ばれたこと」を「喜ぶ」。一見自然だが、ぼくはどうも不自然に感じる。権威的な賞を無警戒によろこぶ芸術家なんて……。

ぼくには、芥川賞だの、ナントカ賞というものは、飛び立とうとするひなどりに結びつけられた重しのように見える。芸術作品が、賞という額縁のなかに入ってしまった。そのとき、芸術は死ぬのではないか。

文学賞を揶揄した筒井康隆の「大いなる助走」は半分事実なのだと思う。受賞作品が、純粋に作品の出来で決まることなどない。審査員に政治的な力がはたらいていたり、十分な批評眼がないこともあるし、バイアスがかかっているということもある。だから「文学賞受賞マニュアル」なんてものがあったりする。だいぶ、金をとられるらしいが……。

さいきんは、文学は死んだのかもしれないと思うことがある。本の売り上げはどんどん落ちている。日本人の半数は本を月に一冊も読まないのだという。ぼくも現代の小説はほとんど読まないし、たいして興味もない。

あんがい、構造的なものなのかもしれない。良い文学が生まれる土壌というものはあるはずだ。日本の文化的荒廃はなんて様だろう、と思う。音楽は言うまでもなく地に落ちている。小説も鳴かず飛ばず。絵画はよく知らないが、最近有名な画家はいただろうか。

アニメは、もうダメだろう。官民あげてさんざん持ちあげたけれど、そこには永続性をもつ芸術ではなく、消費しておわりの商品があるだけだった。けっきょく、クール・ジャパンはJ-POPと同じように粗製濫造で終わった。外国人はほとんど見向きもしなかっただろう。一般の日本人も、たいして興味をもったわけではなかった。いまでは、ぼくは宮崎駿くらいしか興味がない。しかし宮崎駿も、黒澤明のように過去のひとになりつつある。彼が死んだら、アニメは終わるだろう。

このような背景のなかで、よい作品が生まれるだろうか。作り手も、受け手もだめとなれば。おそらく、たいへん優秀なひとびとが、押しつぶされそうな日常の重圧のなかで、細々と活動しているのだろう。だれにも認められず、変人として静かに生涯を終えるのだろうと思う。

ぼくもそのような道を歩むだろう。

ただ、ぼくは最初に書いたように、もはや「自然」と「自己」において充足しているのであり、賞とか、他者の評価は、ぼくにとって余計な邪魔ものでしかないのだ。

自然はいつでもそこにある。自己も同様だ。病気の人間たちは、自然を嫌い、自己を嫌うものらしい。だから権威や他者にすがろうとする。悲しい人生だと思う。

ぼくは木のごつごつした肌を見ることによろこび、やわらかい新雪を踏みしめるときによろこぶ。自分の指が巧みに動くことをよろこび、心臓がやさしく脈打つ音によろこぶ。このような人間には、もはやなにも必要ないのだろう。

俗世間のひとびとは、うごめき絡み合い、愛だの善だのぶつくさ唱えるけど、まどろっこしい。

ぼくは清潔でありたいのである。そうして、純潔の精神を得たつぎには、ぼくがどこへ行こうとしているのか、楽しみなのである。ぼくはまた、しばらく、自分を自由にさせてあげたいと思う。

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