3.02.2015

Anti Triangle

しばらく読書やブログ更新を休んでいた。

離れていると見えてくるものも多い。こうしてくだらない書き物だけをしていてはらちがあかない、という自明な事実をあらためて発見する。他者との交わりをどのようにしていくか、社会にどのように交渉していくか、というところに帰結しなければならない、と考える。

また、本を読むことにしても、それはどこまで血や肉になっているのか、ということを考えねばならない。ルソーを読んだ、パスカルを読んだ、それは重要なことだけれども、読んだ知識は、どこかへ吐き出さなければならない。

人間は知ったまま、じっとしていることができない生きものだ。なにか秘密を隠していても、目や、仕草が、それとなく示唆する。この記事のように、たった数KBの書き物にしても、事実は伝わる。文は人なり。

そうでなくても、秘密の吐露、というのは人間的な愉しみだと思う。なにかを明るみに出すこと、ひとに聞いてもらうことは快楽であるし、必要なことだ。

ぼくは社会から逃れることはできないが、社会からは離れていたいと思う。現実のぼくは、学校のつぎには、企業に飲み込まれるわけだ。それでも、ぼくはできるだけ小さな企業を選んだ。田舎の、のんびりとした個人経営的な企業だ。

巨大な組織は、構造がわかりにくい。各々の構成員が主体的に活動しているように見えて、実はそうでないこともある。細切れになった仕事を、全員が、なんとなくこなしているし、仕事が終われば飲み会にいったり、部下の人生相談を受けたりする。

しかし、それはしているのか、されているのか。あるひとつの小さな行動の傾向、小さな発言の末端、それらの上にはたらく権力だとか、上位の意志は見えていない。

巨大な三角形構造はヤクルトレディにも朝日新聞の配達員にも見てとれる。だが、いったん飲み込まれてしまえば、それらはもう見えなくなる。明日の仕事と、明日のパンしか、見えなくなる。それではいけない。大組織に飲み込まれてはいけない。当然ながら、国家という組織にも飲み込まれない。

中小企業であれば、ずっとそのはたらきは見えやすくなる。たとえそれに対処することができなくとも、見えるということが大切なのだ。人間は、見えない罠に対してはやすやすと引っかかってしまう。ちっぽけなエサと粗末な住居のなかに安住してしまう。自由意志を譲り渡さないこと、自分を道具にしてしまわないことだ。


自由であるということは、高みにあることだ。高みの空気は清涼であり、わずかな草花しか育たない。日はまっすぐにあたり、星は輝き、風は吹き荒れる。

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