3.13.2015

人生は虚無だ。

人間の生の秘密なんて、だれにだってわからないのだから、楽しく、のんきに生きていけるのであれば、それで十分だ、というようにも考える。

人間というものは、案外簡単に死んでもらうものだ。ぼくは毎日酒を飲んでいるし、タバコを吸っているし、メンタルイルネスをもっているし、とにかく不健康きわまりない人間であるから、脳で血栓かなにか詰まって、ぱたりと倒れてしまうかもしれない。

エリオットの詩はよい。

世界はこうして終わる
世界はこうして終わる
世界はこうして終わる
どかんと終わらず、へなへなと

もはや、死ぬということは、前提であって、覆らない。

そういえば、仏陀は「死後の世界はあるのですか」と弟子に聞かれて「死などない」と答えたのだという。なかなかやるな、仏陀。

仏陀をありがたがって、仏陀のようなライフスタイルを望むことや、イエスをあやかって、イエスのようなロン毛にしようと考えるひとは、迷妄にとらわれているひとである。

ひとはそのままで十分なのであり、自己のなかにおいてすべてが完結しているのだから、ただ、存在し、その存在と自己を溶け合わせてゆけば、自ずと全ての真理が見えてくる。

宗教というものが権力と融合して以来ほんとうに真理に到達できるひとはとても少なくなってしまった。なぜなら権力はひとを道具化してしまうからである。道具は思考しない。

とにかく、自分で考えることだ。自分のことは自分にゆだねることだ。だれかれの甘言にくるめとられて、必要のない保険に入らされるように、宗教に身をゆだねてしまうことははっきりと危険である。

別にキリスト教とか仏教が悪いというわけではないが、その亜種である○○学会とか、○○教会というものがどのように機能しているかは、多少のリテラシーがあればわかることである。

生はたしかに苦痛で、不安で、おそろしいものであるが、その不安は、どのようにしてもなくならないのだ。とかく現代において「不安になること」が悪い、異常なことだ、という風に扱われている。事実「社会不安障害」なるビョーキがアメリカの精神医学会によって創作されたが、このような脆弱で不合理な社会においては、不安にならない方がおかしいのである。

それなのに、不安である自己を救おうとして、不安を解消しようとして行動してしまう。そこには、きちんと罠がはられている。ひとびとは、これに警戒しなくてはならない。

ほんとうに優れた宗教というものは、あれこれ周辺の面倒を見てくれるものではない。あれをしろ、これをしろと指図するものでもない。

「知らんがな。勝手にしろ」

これが正しい宗教の教えであって、例外はない。



まあ、こうして、適当なことを言っている。

自分の生を考えると不安になるが、それは生に重きを置きすぎているからなのだろう、と思う。ぼくらは生まれてから、死ぬまで、何も知ることがない。別に恥じる必要はない。きっといまある60億人分の命のすべてが、同じだから。何も知ることがない。「そのようなものだった」人生。それでよいのではないか。

ぼくらは奴隷なのかもしれない。コングロマリットの奴隷かもしれないし、思想の奴隷かもしれないし、旦那の奴隷なのかもしれない。そうして、人生の時間だとか、富を奪われるかもしれないが、そこで悔恨してはならないのだろう。

自分の人生とは、このようなものであった。暗く、惨めで、何の収穫もなかった。それでも、

「これが人生であったか。さらばよし、もう一度!」

というわけだ。結局、ニーチェがあらわれてしまう……。

知性的な人間であれば、人生がいかに苦難に満ちているかはすぐにわかってしまうものだ。この世には、苦痛から解放された、幸福で塗りたくられたようなユートピアは存在しない。バカな女は、ジャニーズのお嫁さんになることを夢見、バカな男は高級車とか社長の座に全てを見出すが、多少の智慧さえあれば、そんなことがつまらぬ迷妄であることはわかる。

人生は虚無だ。難しいが、そこをさらに踏み越えてしまわなければいけないのだろう。

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