3.16.2015

魔性の胎

だめだな。何を書いてもまとまりがない。

花粉が良くないのかもしれないし、こうしてひとり部屋に閉じこもって、とぐろを巻いているのが良くないのかもしれない。

一旦読書の習慣が薄れてしまった。同時に、鋭敏さとか霊感のようなものが、すっと抜けてしまったように思う。ぼくが高度の思考を得られていると自覚するときは、書物からインストールした賢者や哲学者を頭のなかで戦わせて、止揚させるときにあった。

結局、すべては借りものなのであって、人間の思考にオリジナルなんてほとんど存在しないだろう。ぼくらが生まれた瞬間から、周囲には歴史がある。ぼくらの思考の中に歴史があるのでなく、歴史の中に思考があるのである。まあ人間思考の限界性というべきか。

とにかく読書の習慣がなくなってしまった。

人間の生には外圧が必要だ。ストレスのない状態というのは、ほんとうではない。ネガティブな、否定的な感情が悪く思われる現代だけれども、ほんらい、ひとは、つねに、恨み、嫌い、生きてきたものだと思う。

苦痛とか、不幸こそが人間を知に導く。知は血であり、したがって痛みであるらしい。IQが高いひとほど幸福度は下がるのだという。この世は知れば知るほど冷たいものである。

仏教的な価値観では、この生は解脱すべき輪廻であるとされる。この世に安住する人間は、いってしまえば凡愚であり、なにも見えていない。賢者は輪廻転生から解脱しようと試みる。

まあ究極的にネガティブな考えではある。しかし現実的に考えてみても、真実とか、正義とか、善行をつらぬこうとする人間は決まって不幸に陥るようである。そうして、狡猾で、道義を外れた人間がこの世の春を謳歌し、名誉とか富といったものを独占してしまうものであるらしい。

ギーターにおいてはこうした痴愚たちは迷妄にかられており、また転生するにあたってもより悪い存在になるらしい。

ちょっと長いが鎧淳氏の翻訳から引用してみる。

なお以下の内容はヒンドゥー教における最高神ヴィシュヌ(仏教においては毘紐天)がアルジュナ王子に語りかけているところ。

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魔的(運命の)人びとは、(正しき)活動と、(不義の)止熄を知らず。純潔も、善行もはたまた真実も、かれらのうちに存ぜず。

かれらいう、「世は、真実なく、根柢なく、主なく、互いに(因となり、果となり、)生起するにあらず。ただ欲愛に因れるのほかなし」と。

この見解に拠り立ちて、自狂に酔える智慧乏しき徒輩は、行為無慚にして、世に害意を抱き、滅びに赴く。

飽くをば知らぬ欲愛に身を委ね、偽善、傲慢、放恣に充ち、迷妄ゆえに、邪見を抱き、行状浄からず、(世を)送る。

死まで続く、限りなき不安に(身を)委ね、欲愛への耽溺をこととし、「これ、一切」と妄計し、

数多願望の詭策に縛されて、欲愛、忿怒を恣(ほしいまま)にし、欲愛の享楽のため、道ならぬ手立てにより、利財の山を築かんと努む。

「われは、今日、こを得たり。この望み、われは達せん。こはわがもの。この財宝もまた、さらに、(わがもの)たるべし。

かの怨敵はわれによりて討たる。他(の敵)も、われ討つべし。われは主。われは享受者。われは成功者。われは強力にして、幸運なり。

われ富裕にして、生まれ貴し。他のなんびとか、われに等し。祭式を行い、(祭僧に)施し、われみずからが悦ばん」と、惑執蕩けがたきものたちは(考う)。

かのものたちは千々の想念に心乱れ、迷妄の盲瞽に掩われて、欲愛(より生ずるもの)の享楽に惑執し、忌まわしき地獄に陥つ。

かれらは己(のみ)を尊しとし、驕慢にして、財を誇り、(財を)恃む心に充ち、名のみの祭式により、規定の式によらず、上辺のみ祀り、

我執、暴力、高慢と、欲愛、忿怒に身を委ね、自他の肉体のうちなるわれを憎悪しつつ、(われを)誹謗す。

この無慚にして、憎しみ抱ける、人中、最低位の不浄のものらを、われ、絶えず、輪廻において、ほかならぬ、魔性の胎へと抛げいる。

魔性の胎に陥りて、広劫多生の間、心惑い、クンティー妃の王子よ、ゆめ、われを得ずして、それより、かれら、最低の状態に赴く。

己を滅ぼす、これなる地獄の門は三重。欲愛と忿怒、貪婪、(これ)なり。されば、ひと、この三を抛つべし。

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難しい言葉が多いが、まあお金に汚い人間は、人間のなかでもっとも卑しく汚い人間だから、もっと最低の状態に転生させますよーってな流れだと思う。

ギーターのなかでも上記の部分はかなり気に入っているところで、だから長々と引用してしまったのだが、「俺が神なんだ」「俺が成功者だ」「俺は強いんだ」「俺は幸運だ」と思っているような傲慢な金持ちたちは、結局は地獄に落ちる、そういう風に世の中はできているんだ、と思うことで、妙に溜飲が下がるような気分になる。



結局のところ、ぼくは大学を出てそこそこ稼ぐことになっても、あくまでそこそこでしかない。まっとうに働いて、普通に生きていくだけでは、富豪にはなれない。がめつく、狡猾で、不義な人間にならなければならない。

現代的な考え方、とくにアメリカ式の価値観では、お金を稼ぐことは良いことだとされる。日本でも、ビジネス書だのなんだので、優秀なビジネスマンになることを推奨している。

しかし、本来的にはビジネスマン=商人は、つねに社会的下層に置かれた。もちろん彼らは金を持っているのだから、実際的には権力を持っていただろうが、そのバランスをとるために、例えば士農工商では農民や職人よりも商人は下に置かれたわけだ。

とはいっても、少し前のアメリカでは、「金を取るか、名誉を取るか」という二者択一だった。金持ちは汚い、という伝統的な価値観が生きていた。それが次第に金の力が露骨に強くなっていって、金で名誉が買えるようになった。もちろん昔から豪農が貴族の地位を得たりということもあったけれど、あくまで例外であり、現代のようなおおっぴらに「金持ちは偉い」みたいな価値観はなかったことだろう。

またルソーも「現代の政治は経済のことばかり考えていて、徳を考えることがなくなった」と嘆いていて、まったくどこかの政権と同じだと思ったり。

とにかく金、金、金がこの世を支配している。

金を積めばひとも殺せる。たとえばあいつを殺したら一億円やる、と言われて、拒める人がどれだけあるだろうか。もちろん、一億だろうと十億だろうと、人なんて殺さないよというひとがあるかもしれない。こういうひとは、比較的経済的に恵まれていて、豊かに暮らし、日常に満足していることだろう。

それなら、この世の経済をコントロールして、ひとびとを貧しくしてしまったらどうだろうか?食うには困らないが、車は軽自動車しか買えないし、結婚もできない。労働時間は長く、寝る時間も確保できない。どこかの国のようだが――

こうなったら、ひとびとは金に憧れを抱くようになる。金さえあれば、自由になれる。金さえあれば、豊かに暮らせる。というわけで、みな、血眼になって金を集めようと躍起になっているわけだが、おそらくそれには理由があるのだろう。

徳川幕府では「生かさず殺さず」が是とされていた。一億総中流なんていう時代は、今考えても異常である。マスが力を持つことは、国家を管理するひとびとにとっては実際恐ろしいことだったろうと思う。

ただもうそんな「豊かな大衆」という近代国家の産物は、国家にとってはいつ爆発するかわからない危険物でしかない。少数の金持ちであれば、ひとりひとり懐柔させ、コントロールすることも可能だが、大衆となると難しくなる。

もっともあの時代はネットもなく情報に乏しかったから、マスメディアで右や左に行かせておけば、とりあえずひとびとは満足していて、うまく統治されていたわけだ。

現代日本の税金はだいたい四割くらいであるとされる。儲けている人や、酒やタバコなどの嗜好品をやる人は、五割や六割もとられるだろう。

こうして人民は貧しくなる。ほんとうに貧しい人びとは、明日のパンを得るのに精一杯で、政治にも、国家の矛盾にも目がいかなくなる。だから、格差社会というのは、正しい統治の一側面でもあるわけだ。

人民をコントロールすること、もはや何も考えさせないこと、戦争になれば前線に向かわせ、平時は富を献上する、理想的な人民を作りだすことが国家の至上命題である。

いまでも、就職できなかったり、貧しい人びとは、「自衛隊に入ろう」というようなキャンペーンが、大っぴらにではないが、静かになされている。

長くなったが、上のような格差とか、貧困層の拡大といったことは、為政者側の個人的な欲望にも敵うし、国家を守るという点でも、適切なようである。

安部ちゃんは「国民の生命を守るのは医者がすること。政治家のすることは国家を守ることだ」と言っていたけど、この点では有言実行と言うべきか。

もっとも、福祉国家とか、格差の少ない国ではどう統治しているのか、こちらはよくわからない。

とにかく、人びとから搾取し、暴利を得ている経営者とかそういった人びとは、「魔性の胎」行きなようである。そう考えることによって少し救われるのである。

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