3.17.2015

人生のある諦め

どうも自己嫌悪の日々である。

鬱屈としている。何も成せないのではないかという疑念がある。

もはや自分が何でもできる・何にでもなれる、という可能性に充ちた青春の時代は過ぎ去って、ある程度固定化した人生、先が見えてくるような人生を感じている。

スピードを出した車で、道路の奥に壁が見えてきたような、実感としてはそのような人生感覚を得ている。

自分というものがある程度わかってくると、道は自ずとできてしまうものらしい。そうだから、強引にあちらやこちらへ行かせようとするよりも、黙ってそれにつき従うという、一種の諦めのような感情が萌芽してくる。

まあそのようなもので、自分の人生にとって、ある程度の平和が良いのか、Stimulatingな人生が良いのかということを自己に問うていくけれども、自己の主体性が人生に与える影響なんて実は軽微で、結局はなるようにしかならないということを知った。

この生は、もはやunder controlなのではなく、生とか、人生というひとつの時間軸が、自己の内在する存在から離れていってしまうように感じる。

つまり自分が飯を食い、ある仕事をするときも、自己存在は遠く星や太陽のように見守っているのであって、良い母親のような不干渉で、自分は勝手に動いてゆく。

それは「異邦人」においてムルソーが殺人を犯した理由を「夏の太陽」のせいとしたのと、感覚的には似ている。ムルソーは結局死刑の判決を受けるが、これが示すとおり、法律というものはたぶんに「自己責任」の信奉の生きた世界である。

われわれがAという道を選ぶのか、Bという道を選ぶのか。豊かな生活を送ってきた少年が暴力団に入ったり窃盗犯になるようなことはまずないし、貧しい生活を送ってきた少年が東大の法学部に入ることも滅多にないことである。

ぼくらは生まれたときから宇宙的環境とそのもうひとつの基軸である歴史に支配されているのであり、そのなかでモノを考えたとしても、二次元世界の人間に三次元的思考が不可能なように、しょせんは考えたつもりなだけで、何ら限界を突破できるものではない。

Aなのか、Bなのか、という問い自体が、環境によって極端に制限された選択肢であり、ほんとうは無限の可能性があるものだが、人間の大脳という「情報削減装置」がそれを許さず、われわれはつねに、「あれかこれか」の選択に悩まされている。これを打破することは人間には不可能である。

そういえばキェルケゴールは「美的生活の行き着く先は絶望に他ならない」としたがそもそも絶望のない美なんてあるのだろうか?

ぼくらは迷路のなかのラットと変わることがない。

というわけで自分の人生に対するある諦めがある。

つまり人間の存在は限界ばかりである。もともとぼくのもつこの有機的な眼球とか大脳というものは、まったく原初的で不完全な代物であり、やりきれない気分になる。こんな眼球で真実を捉えることができるのか。この程度の脳みそで、真実を知ることができるのか。

人間が真理に到達することは難しい。人間が人間的思考にとどまる限りは真理とは無縁である。人間の見る世界は人間的世界であり実際の世界ではない。原子とか銀河は普遍的真理のようにみえて人間的創作である。

そうだから仏教徒は座禅するのだろう。座禅するときは思考してはならないとされる。大脳のはたらきを極限まで鎮静し、平常であれば削減されるはずの「情報」を得る。そこから宇宙の脱人間的な、普遍的真理を得る。このプロセスが座禅の目的だと思う。冥想とは冥を想うと書く。

古くから魂と肉体という二元論が人間を支配していた。こう考えたくなる気持ちはわかる。人間の肉体はその造形があまりに動物的である。だから肉体と切り離された、神的な領域が自分にも備わっているに違いない、という願望は自然と生まれることだろう。

肉体を愛したギリシャ人の神話とは違い、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の神ヤハウェは人型をとらない。というかキリストやマリアはともかく、ヤハウェについては偶像が禁じられているのでこれが形をとれない。

人間にヤハウェの偶像が造れないということは、その造形を人間が絶対的に知ることができないからである。ここにも二次元的人間の三次元的解釈の不可能性が見てとれる。

こうした考えの源流にはやはりプラトンがどうしても浮かんでしまう。プラトンは人間には正確な三角形を決して描くことはできないとした。こうした正確な三角形はイデア界にしか存在しないのだ、というのがプラトンの考えである。

人間のイデア、神的な存在であるところの人間がどこかにあるに違いない、という考えはプラトン的とも言えるだろう。また、ギリシャ神話的な神(日本的な神とも通じるものがある)を否定し、それらを不完全なものとして棄却し、イデア的な神=ヤハウェを生みだしたのも、この源流としては、プラトンがあると考えてみてもおもしろい。

話が散漫になった。結局、プラトン以後の世界と、プラトン以前の世界、どちらが正しいのか、という話になってくる。プラトン的な世界は永く西洋を支配したがこれを一千年以上あとになってニーチェが覆した。肉体への回帰、アポロンからデュオニソスへの回帰を示したのがニーチェである。

今のぼくは結局ニヒリズムに陥っているわけで、ニーチェ風にいえばラクダの状態に今あるということか。屈従のラクダの状態から獅子へと、獅子から赤子へとならねばならない、それが超人への道筋だとニーチェは言い表したけれども、このプロセスはなかなか楽ではない。

人生は一切皆苦という点ではプラトンもニーチェも同じだったのだろう。プラトンはそれだから理想的世界を別に創り出したし、ニーチェはそうではなく、あえて人生を受けいれる、能動的ニヒリズムを示した。

人生はだれにとっても辛く、本当に、やるせないものだということは、だれしも感じるところである。

まあしかし、人生はなるようにしかならん、という諦観が、現実のぼくの認識としてあるわけで、この諦めを乗りこえられるのかどうか、というところである……。

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