3.21.2015

森の花ざかり

少し憂鬱にかられていた。大学を卒業しこれから就職するとなればだれでもそうだろう。しかし、働くことは悪いことばかりではない。当然、良い面があるから働くのだ。

なんといっても、金がなくては始まらないし、だいたい、仕事なくして、日々をどうして過ごせば良いかもわからない。

春休みになればしようと思っていたことはたくさんあった、しかし、余暇が日常になってしまうと、かえって嫌気がさすものだ。

この世の大部分のひとは、雇われることで金銭を得ている。絲山秋子も言っていたが、作家業をするためには、会社人の経験が必須らしい。

考えてみれば普通小説というものはマスをターゲットにしている。大衆というのは、世の99%の人間のことである。多かれ少なかれ大衆は雇われ人である。

世界は旅客機の客席に似ている、とだれかが言っていた。エコノミークラスに九割のひとが乗り、残りの一割はビジネス席だ。これらは前後の部屋で区切られている。ファーストクラスには数人の乗客のみが乗る。これは階層が違うので、エコノミーやビジネスのひとびとは、ファーストクラスの人びとの顔を見ることすらできない。

ぼくらエコノミーな人間には知り得ない世界がある。おそらく数万のランチを何食わぬ顔で平らげるぼくの勤務先のオーナーのような人は、ビジネスクラスだろう。プチブルというべきか。

プチブルは会社の社長とか、大学理事長みたいに、目に見えている存在ではある。そうして、ファーストクラスの連中はぼくらの「上の階」にいる。もちろん1%の富裕層にしても、目に見える、ビルゲイツとか、三木谷のような存在がいるが、日本では個々人の収入を厳密に調べるようなことをしていないので、もっと金を得ている人がいるだろう。

時給800円の人間が、道路を走るフェラーリを見たところで、それはいまいちぴんとこないものだ。彼の目には、その後ろを走るダイハツ・ムーヴの方が、くっきりとした輪郭を持っている。(まあ、貧乏でもスーパーカーファンはいるものだが……)

ぼくらはすべてを見えているわけではない。ぼくらは見たいものしか見ない。やはり脳は情報削減装置と言うことができるだろう。すべてを見ることのできる人間は、統合失調症か何かなのだろう。

時給800円の人間の哲学と、年収1000万円の哲学がある。これは偏見ではなく、当然のことだ。ひとは環境によって作られるし、生まれもった遺伝子にもよる。女には女の哲学が、男には男の、日本人には日本人の、という風にそれぞれ根本的な思想は違ってくる。

その点、ぼくからは貧困という世界が遠ざかることになる。ぼくはそこそこ豊かに暮らすことが決定した。そのことへの嫌悪感は当然ある。

どちらかといえばぼくは変化を嫌うタイプであると思う。タイプ、というか、神経質な人間はだいたいそうだ。新品のバイクは落ち着かなくて、何万キロも共にしたようなボロバイクが好きだ。

いままでの生活は貧困そのものだったが、いまでは就職を記念して、生協の500円のイヤホンから、SHUREのいいイヤホンにクラスチェンジした。これでジャズを聴いているとBGMがBGMとして機能しなくなる。音の存在感が全然違う……。

まあぼくは消費に走っていくのだろう。部屋ではルンバを飼いドラム式洗濯機を回すだろう。日の当たる一軒家(東京ではこれを得るだけでもとても難しい)で良い絨毯を眺め良いソファのなかに沈むだろう。もはやブックオフで108円の本を漁ることはなくなるのだろう。晩飯のおかずが納豆だけという貧困も遠い記憶になるのだろう。3000円の買い物に一週間悩むことも二度とあるまい。

人間は変化する、なにもかもが変わってしまうのだろう。学生の哲学があれば会社員の哲学がある。

人生に良いも悪いもない。そして、偶然などないのだろう。これが永劫回帰の考え方だろう。だからシャルル・クロの短い詩に、深い感動を覚える。

かの女は森の花ざかりに死んで行った
かの女は余所にもっと青い森のあることを知っていた

Flowers on the forest edge - Ivan Shishkin, 1893

調べると、この詩は、三島由紀夫の「花ざかりの森」のエピローグに使われたらしい。たしかに三島の好きそうな詩。



いったい自分が正しい道を歩んでいるのか、と思うことがある。しかし、人生というものは、正しい、悪い、という尺度で測れるものではない。二次元の人間が三次元を知ろうと試みるようなもので、ぼくらには判断不可能なのである。

ムルソーくんがママンの葬式の次の日にセックスしようが、太陽の下でアラブ人を銃殺しようが、それは本来、だれにも裁けるものではないのだ。

だいたい、すべての殺人は個人の悪に帰結できるものではない。そんなことは、ふつうの良識ある人間ならだれでもわかることだ。人がだれかを憎むときには、必ず何かが介在している。死がひとを「追いやる」ものであるのと同様、ひとは殺人という状況に追いやられていく。

その主語は、貧困でも、教育でも、社会構造でも、構わないが、とにかくそういうものは「見えない」ことにされ、罰せられることはない。

しかしだれも悪くない、強いていうなら社会が悪いんだーなんて言ったら司法は崩壊するのだから、個人の自由意志、自己責任という具合に帰結される。これは善悪の尺度というよりは、統治のメソッドでもある。統治と司法はなかなか切り離せないものだ。

究極的には、司法がなければ統治はないし、統治がなければ司法はない。ruleとは、規則、慣習、支配を表すが……。

それはともかくとして、ヘラクレイトスだ。
「貴殿は、『自然について』なる書物を著されているが、それは理解するのが難しく、解釈するのも困難な書物です。……そこで、ヒュスタスペスの子、王ダレイオスは、貴殿から直接に講義を受けて、ギリシアの教養にあずかりたいと望んでいるわけです。ですから、小生に会われるべく、わが王宮へ至急お出かけいただきたいのです。……小生のところでは、貴殿にはあらゆる特権があたえられるでしょう……。」
という王さまの教育係という学者として最高の地位への推薦に対し(東大教授なんて比にならない地位だ)、
「この地上にあるかぎりのすべての人間は、真理と公正さから遠ざかって、みじめな愚かさゆえに、飽くことを知らぬ貪欲や、名声の渇望へと心を向けているのです。しかし、このわたしは、そのようないかなる邪悪さにも覚えはなく、嫉妬と深く結びついているところの、あらゆるもので充ち足りた状態を避けており、また華々しく見えることも遠ざけていますがゆえに、ペルシアの地へ赴くことはできないでしょう。僅かのものでも、わたしの意にそうものであれば、わたしは満足しているのですから。」
と返したのがヘラクレイトスである。

このような過去の偉人と、自分を重ね合わせた時期が自分にもあった。

今後同じ状態になることがあるだろうか。ひとはだれでも一時期は詩人になるものだというが、ぼくのなかの詩人はもう死んでしまったのか。

「あまりにも遅すぎた!」という永遠の嘆き。ーーすべての出来上がった者の憂鬱だ!(善悪の彼岸)
ふん。

要するにきみは、ツールーズの小市民なのだ。何ものも、きみの肩を鷲摑みにしてくれるものはなかったのだ、手遅れとなる以前に、いまでも、きみが作られている粘土はかわいて、固くなってしまっていて、今後、何ものも、最初きみのうちに宿っていたかもしれない、眠れる音楽家を、詩人を、あるいはまた天文学者を、目ざめさせることは、はや絶対にできなくなってしまった。(「人間の土地」テグジュペリ)
ふーん。

人は誰しも
いったん
安定した世界に
身を置くと
精神も
それにならって
俗化し
理想を忘れて
だんだん
怠惰になって
いくようだ
青春時代に描いた
夢や理想とは
かけはなれた
生活をしながらも
自分を
磨こうという
気持ちすら忘れ
そのぬるま湯の
心地よさに
いつしか慣れて
満足に本も読まず
堕落した生活を
送るようになって
いくのである
(新渡戸稲造)

なるほど。

そういえば、忘れていたな。ぼくにすべき仕事があるとすれば、光を与えることだったのだ。かつてのぼくは、死ぬような思いで生きていた。それは世間とは相いれない性格もあるし、神経症という病的な逸脱も原因だった。

そこから知のみがぼくを救ってくれたのだ。

まあ、ぼくの場合苦難から救ってくれたのは読書だったが、本を書いたのも人間である。親や友人に救われたというひとが多いだろうが、ぼくはといえば、ただ文学や哲学が救ってくれたのである。

だから、ともかく、かつての自分のように、冷たく、暗い人生を歩んでいる人、人生の何もかもがわからず、自分がどこにいて、何をしているのかもわからない、そういう人の蒙を啓くような仕事、これをぼくはしなければいけないのだ。

とはいっても、まだぼくは未熟であるし、研鑽していかねばならない……。

楽器の方は相変わらず続けている。続けるということが全てなのだろう、だれにも教わらず、黙々と練習していたから、下手なセミプロくらいの技能はついたと思う。楽器はそろそろ七年目というところだろう。まだまだ発展途上だが……。

文章の方も、ずっと続けて上手になっていきたいものである。しかし、毎日毎日書き殴っているだけだし、とくに上手い表現とか狙っているわけではない。文章は音楽とまた違っている。技術だけでごまかしの効くものではない。

なにか小説をまた書いてみたいと思う。前にあるサイトで公開したときには、数名褒めてくれる人がいた程度だが、ブログをこうしてだらだらと書いてきたのだから、また違うものが書けるかもしれない。

とにかく、ひさびさに書いたら、もやもやした鬱屈した感情が少しすっきりした。良いことだ。一日何も食べていなかったから、何か食べてこよう。






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