3.23.2015

結婚式、芥川賞、ソクラテス

先日友人の結婚式に出ていたが、結婚式という文化はよくわからないものだ。

とにかくバカバカしいど派手さで、訳の分からぬまま進行し、大金を払い、酒を飲んで、うまいものを食って終わる。とにかく奢侈、派手、豪快な式である。ただそのそれぞれの行為の意味はわからない。

とくに意味不明なのが、なぜ結婚式で新郎新婦はキリスト教に改宗するのか?(ただし一日だけ)ということだ。ほんとうにわけがわからない。カタコトの日本語で「アナタハエイエンノアイヲチカイマスカー」なんて言われる。ちゃんと「キリスト」だの「主」だの「聖書には~」と異教のタームが出てくるのだが、当事者たちも、参加者も、これに何を感じているのだろう。

あれはまともな牧師がやっているのではない、というのは有名な話である。まだ牧師ならましな方で、その辺の外国人を雇って、それっぽいことを言わせていることもある。

新郎も新婦も、そんなことをつゆ知らず偽牧師にクソマジメに宣誓しているのだから、これは喜劇である。クソマジメに父母も涙を流している。やっと改宗してくれたから喜んでいるのか?差別的な意味はないが、カタコトの日本語はおもしろいものだ。MR.Baterを思い出して笑いそうになる。

憶測に過ぎないが、本当のキリスト教徒は「教会」で式をあげるのであり、結婚式場のなかに建てられた「ナンチャッテ教会」で式を挙げることはないだろう。

こういう式典は空虚なものなので、ぼくはできる限り退けたいものである。


クソマジメと言えばぼくもクソマジメな人間なので、世の中の実像とか、生きる意味とか、考えてもしょうがないようなことばかり考えている。

ひさしぶりに兄と会った。四月から就職する、というと年収の話になった。どうやら一年目にして、兄の収入を超えるらしい。こんなことは、やはり、言うべきではなかっただろうか。

ぼくには社会人としての常識がない。まだマネーゲームの渦中にない。ぼくは長く学生であったし、人間であった。学生という気分は抜け落ちるのだろうが、人間としてのぼくは「聞かれたことは正直に答えるべきだ」ということになる。芽生え始めた社会人としてのぼくは、「そんなことは例え兄弟であっても言うべきでない」、と戒めるだろう。

ぼくにとって年収が300万円だろうと1000万円だろうとそれはどうでもいいことだ。どうもひとびとはこういう数字を気にするらしい。テストが百点であれば喜び偏差値が70であれば喜び年収が1000万円であれば喜ぶ。

数字というものがひとびとを支配するようになった。ひとびとは順位に支配されているのである。アイデンティティーという言葉が人びとを支配する。

東大卒としてのアイデンティティ、医者としてのアイデンティティ、とかくアイデンティティを持つことは良いとされているが、自分本来を直視すれば、そんなものに依拠するようではダメだろう。

肩書きは与えられるものでしかなく、内から生まれいずるものではない。医師免許は厚生労働省が与えるものだし、その給料にしたって、だれが払っているのだ。1000万円の年俸はだれが払っているのか。それはより強い人間だ。君は養育されているのだ。都合のよい道具に。

それなると大部分の小説家は出版社の養分ということになってしまう。が、まあそれも一面では事実なのかもしれない。


この前「芥川賞を素直に喜ぶ小説家ってどうなのか?」と思ったことを書いた。まあたしかに芥川賞は小説家としての免許状というような要素もあるので賞金や生活のことを考えて喜ぶのはいいだろうが、それにしたって、飯を食うために作品を書くものだろうか、と思ってしまう。

芥川賞を辞退した文芸家はいるようだ。

 第11回芥川賞(昭和15年上期)は高木卓の「歌と門の盾」が受賞作に決定したが、高木は「2日考えた末」辞退した。高木卓(本名・安藤煕(ひろし))は一高のドイツ語の教授、「歌と門の盾」は大伴家持を主人公にした歴史小説だった。
 菊池寛はこの受賞辞退について、「話の屑籠」(同年9月号「文藝春秋」)で怒りを書きつらねた。いわく、
「審査の正不正、適不適は審査員の責任であり、受賞者が負ふべきものではない。活字にして発表した以上、貶誉は他人に委すべきで、賞められて困るやうなら、初めから発表しない方がいいと思ふ」
 文壇の大御所といわれた人らしい発言だが、高木の辞退理由もなんだか歯切れが悪かったのも事実である。
 辞退理由の真相らしきものは、意外にも次の第12回芥川賞を「平賀源内」で受賞した、櫻田常久の「感想」(受賞のことば)で明らかになった。高木と櫻田は同人誌の仲間であり、高木は櫻田の「かい露の章」が同じ11回の候補になっていると思いこんでいた。そして自分が辞退すれば、先輩である櫻田が受賞できると考えたようである。「かい露の章」は最終候補作に残っていなかったのだから、ちょっと痛ましい誤認だった。

菊池寛の怒りっぷりが笑える。

考えてみると賞というものは絶対的な主従の関係がある。賞だの名誉を与えるのは当然「偉い方」であり、受け取る側は「より劣る方」である。生徒が校長先生の功績をたたえて賞を与えることはないだろう。天皇はよくがんばったからぼくが賞をあげよう、などと言い出せば右翼に殺されるだろう。

賞を受けるということは「褒められてよかった」で終わりではなく、権力構造的に組みこまれることを意味するから、とうぜん拒絶も予想できることである。

事実上菊池ひとりが作品を選ぶ権利をもっていた初期の芥川賞などは、菊池寛に賞を貰うようなものだから、賞を拒絶するということは実際「俺はお前以下ではない」という菊池に対するメッセージにもなる。

菊池が激怒した内訳はこういった具合である。引用文には辞退に対し好意的な解釈がされているが、実際のところは権威に対する拒絶か、菊池に恥をかかせるために辞退したのだとぼくは考えている。

賞というのは受ける側に利益があるように思いがちだが、与える側にも名誉がある。すごい奴に賞を与えた自分は、もっとすごいことになるのだから。


権威の棄却、金銭の棄却、名誉への拒絶、そんなものが重要になってくるのだろう。

結局、人間はだれも真理に到達できない。ソクラテスは「お前がいちばん賢いんだよー」という神託を受けて大いにとまどった。「俺は何も知らんぞ。俺が賢者なわけがない」と。それで、ソクラテスはいろんな賢者に問答をして自分より賢い人間がいることを確かめようとした。しかし、賢者だと思ったひとびとは何も知っていないことをソクラテスを知った。そして、ソクラテスは「自分が無知ということを知っているから、自分は賢いのだろう」と悟るに至った。

有名な「無知の知」であるが「何でも知っているかのように振る舞う」人間のいかに多きことか。

とは言ってもぼくだって「賞は権力構造だー」なんて一見真実らしいことを言って物知り顔ではある。高慢さと無知はイコールである、ということを肝に銘じておこう。

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