3.03.2015

生に倦む

人間は、勝手に生まれて、なにもわからずに、ただ死に向かって進まねばならない点ではすべて平等なのだろう。

それはソクラテスもそうだし、凡夫でも同じだ。たしかに、ニーチェやソクラテスはある程度がんばった。だから努力賞的に、後生に名が残っているけれども、根本的な問題にたいしては何もわからないという点では平等である。

ぼくは田舎に行こうとしている。田舎で、そこそこ稼いで、そこそこいい家に住んで、いい車に乗って、いいバイクを買うだろう。だが、それがなんだというのか。

ぼくはあたたかな堡塁を築いて、そこに安住しようとしている。そうして、ルーチン的な労働のあいだに、わずかに読書をすることで、生に慰みを与える。そのような生活をしようとしている。

ともあれ、人間は働かなければならないし、大学人という人種であっても、くだらない事務作業に追われることは変わりない。文筆業や芸術家の人間だって、食う仕事と、ほんとうの仕事は別に考えているはずである。

「自由ということ」と、「食うこと」の間の矛盾を解決することが難しい。

ぼくという人間は、ふたつに別れてしまえば、ずいぶん楽なのだ。片方は暖かな家庭をもって、出世して、金を稼いでもらいたい。もう片方は、ボロボロの衣類をまとって、世界を放浪してもらいたい。そうすれば、両者とも満足できる。

二重人格というものが90年代くらいにブームになったが、学術的には否定的に扱われるらしい。しょせん二重人格なんて、願望の産物ということだろう。人間とは矛盾的存在だから、理想状態とはほど遠い。しかし理想を求めていくと、精神を分裂させなければならなくなる。

人格が二つになった状態は、たしかにひとつの理想である。男であっても、女でありたいと思うことがあるし、まじめな仕事をする一方で、変態趣味を発露させたいと思う。


人間は、理性的な社会を構築し、明晰な論理とルールでもって発展してきたけれども、このルールが、人間を破壊してゆくということもありうるものだ。

ぼくらは本当に目が覚めているのだろうか。生まれたときから当然のようにあるルール、論理、これらは本当だろうか。教育=洗脳はすでに完成されていて、ぼくらはその範囲内でしかものを考えることができないのではないか。

真理とは、積み上げるものではなく、取り除き、解体していく先にあるはずだ。真理とは、シンプルで、ほのかにあたたかいものに違いない。人間は、自分を壁にぶつけて、殻を破っていかなければならない。血と、痛みが、人生の本質ということだろう。

人間は、生まれてから、死ぬまでを生きねばならない。これは悲しいことだ。結局のところ、人間の思考は、真理に達しえない。なぜなら、死という根本命題を解決しないことには、真理に到達できないのだし、いまだ死という謎を乗りこえた知者はひとりとしていない。

人間はちっぽけな葦だ、たしかにわずかに考えるけれども、なにもかも足りていない。

そういうわけで、今後の生きる道を考えているが、すべて間違っているように考えてしまって、ずいぶん辛い思いをしている。

やがて老齢と経験とが
手をたずさえて
彼を死へと導いてゆく
そのとき彼は覚らされるのだ
あのように長い
あのように苦しかった精神であったのに
自分の生涯は
みんな間違っていたのだ、と
(ゲーテ)


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