3.31.2015

場所について

漫画喫茶にて。

田舎の漫画喫茶はすごく接客が丁寧だ。まあ平日の昼ということもあるだろうが、閑散としていて、まったりと落ち着ける。料金は5時間1200円。まあ普通か。

東京では漫画喫茶というと、家のない派遣社員が宿泊所代わりに使ったり、金のないカップルが楽しむためにあるようなところだが、あまりそういう負のオーラ、退廃的な印象はない。

田舎での生活も四日目になって、異国にきたような違和感と緊張感は薄れていった。はじめは、日本語の通じる外国にきたような寄る辺のなさを感じていたが、生活の身の回りのことを片付けていくうちに、次第に環境に適応していっているようだ。

それにしても、引越しという作業は肉体的にも精神的にも多大なストレスがかかるものである。何百キロも離れたところならなおさらだし、海外に移住するとなると、その何倍もつらいものだろう。

しかし、人間はどこかにはいなければならない。この地球上のどこかには、自分の身をおいておかねばならない。なぜ私はここにいるのか?と問うのは愚問だ。人間は「どこかにはいなければならない」のだから。

なぜ赤坂のオフィスではなく田舎の小企業に?タワーマンションではなく田んぼに囲まれた平屋に?

そのように考え始めれば葛藤が生じるが、ぼくの肉体が地中に埋もれるか海に沈められるまではこの地表のなかにあらねばならない。六本木のタワーマンションにいたところで、「なぜ私はここに」という問いは等しくやってくることだろう。
私はなぜ あらゆる人 あらゆる場ではないのか 
という葛藤をペソアは抱えていたが、人生は一度きりであり、他者の生と自分の生は違う。どれだけ多種多様の人生がこの世にあろうが、ぼくが歩む人生と他者の人生は本質的に違う。自己の人生と他者の人生は比較不可能であり、 ゆえに根本的に次元が違うといえるだろう。

それにしても、ぼくは自分の意志でここにきたのか。何かに導かれてここにきたのか。それは偶然のはたらきといえるのかもしれないが、偶然などこの世にはないのだ。今打っている文章が、今日食べる飯が、明日のぼくを形作ってゆく。

人間とは人間と環境を指すのであり、いくらかりそめの主体性を信奉したところで惨めな気持ちになるだけだ。ぼくがここにきたのも、ある川の流れに沿っているように感じる。それは現実的に考えれば遺伝子情報とか過去の経験というふうに還元できるのかもしれないが、ともかく自己を制御するのが、自分自身の意志というよりは、自己の内奥と、外部の環境の二極にしたがっているように感じる。

ぼくはこの流れの中にあることに少しの安心を覚える。流れに身をゆだねてしまえば――人生の一回性も納得できる。すべてのことに意味があるのであり、すべてがぼくを形作る。ぼくという存在主体は、環境と内奥の間で揺れうごく「観察者」でしかない。

結局のところ、この奔流の先に何があるのかはわからない。死ねばすべてが「終わり」だが、その続きはあるのか。あるとしたら、いったいどこに用意されているのか。死の先は認識不可能の領域である。

と、引越しの話からだいぶずれてしまった。

とにかく、このように、考えることはいくらでもある。自分がどこにあるかという疑問を持つこと、その疑問に気をわずらうことは時間の無駄だろう。

ぼくはあらゆるこだわり・執着を捨てたい。真の自由を追求したいと思う。知とは自由に他ならない。知とはこだわりを捨て去った先にある。

在る、という至上命題が前提としてあり、会社とか、給料とかは、枝葉の問題でしかない。まあそのような姿勢で生きていこうと思う。

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