3.15.2015

貴族社会

しばらくニュートラルな気分が続いている。

いまは学生と労働者の幕間である。最後のこの時間を楽しめるひともいるだろうし、来月からは「懲役四十年」と嘆き悲しんでいるひともいるだろう。

ぼくはといえば、中立的な気分だ。たしかに、一面では悲しくもあるが、もう一面ではようやく解放されたような気分がある。

はたらくということがどういうことなのかはわからないが、ぼくの印象では、あまりいいイメージがない。仕事laborとは、自分の魂を削って金銭を得るようなイメージがある。

仕事という言葉に、プライベートな日常生活まで侵犯してくる負のイメージがつねにつきまとう。事実そのとおりなのである。労働者というのは、第一に道具であるのであって、人間であるということは忘却の彼方に捨て置かねばならない。日本的な資本主義社会とはそのようなものだ。

会社という組織が、労使の関係だけではなく、家族的な価値観の共有をしようとすること、個に浸潤しようとすること、これがぼくをひどく苛立たせる。労働者と経営者の関係は、労働契約書のどおりにはいかない。労働力だけでなく、魂を売り渡せ、と訴える、これが日本社会である。

結局、町内会ファシズムと変わらないのだ。「あいつだけが抜け駆けしている」「許せない」というような相互監視は、会社という組織でも同じだ。だから日本では有給休暇が消化されない。学校でも会社でも、とかく陰湿な社会である。

きまじめとか、律儀とか、日本人論はさまざまだが、もともとの性質がどうとか歴史的な立場で論じるより、現在的に矯正している側に焦点をあてるべきだと思う。日本の学校教育はかなり異質である。だれもが同じ服を着て、きれいに整列させるのだから。

教育と洗脳は区別が難しい。倫理的に考えたら、すべての教育は放棄すべきだろう。そうして、エミール少年的な教育を施すべきだろう。

しかし、現実的には、すべての人間が人間である必要はない。

資本主義社会においては、人間は不要なようである。きれいに整頓された歯車、これが必要なのであって、行動の予測が難しく、ときに思い通りにうごかない人間というのは、欠陥品なのである。

というわけだから、一部のエリートが人間思考を占有し、あとの畜群をコントロールしてゆく、これが現代社会を説明するひとつの解釈なのだろう。

それにしても、こうした陰謀論的な感覚がもはや平然とぼくのなかに居座ってしまった。それでも、おおくのひとがぼくと同じような感覚を抱いているようである。それも当然であって、原発事故において、ぼくらは明確に騙されたのであるから、これで目覚めないようでは歯車として優秀すぎるということだろう。

ぼくらはフランス革命の前夜とか、第二次世界大戦中のような、歴史に吸いこまれるような感覚を知ることができない。しかし結局、ぼくの思考も歴史から逃れることはできない。

かつての哲学者は、俗人たちがあまりに無思考なことを嘆いているが、その原因までは考えようとはしなかった。俗人が俗人であることを望む存在があることを、哲学者は知らなかったというわけだ。

まとまりがなくてすまないがこんなところで終わる。また、酒を飲んでいるのだが、酒を飲みながら書いていると、途中で失速してしまう。ほんとうは朝書くといいのだろう。

最近は、日常を倦怠が支配している。花粉が飛ぶ季節というのもあるだろうし、暖かくなってきたという事情もあるだろう。どうも思考が深化していかない、つまらない感覚である。

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