3.06.2015

ムードについて

デスクと椅子を解体し粗大ゴミに出してしまったら、あまり書く気のなくなるものだ。

人間を支配しているのは論理や公理よりもはるかに「ムード」なのであって、このことは、ファッションの研究家とか、人気漫画を描いている人にはよくわかるものだと思う。

例えばぼくらは「氷」とか「炎」というような言葉を聞いたときに、脳裏には、たしかに氷そのものが表象としてでるけれども、その氷をつかんですっぽりと抜いてしまった後にも、「『氷そのもの』以外の氷」という部分があるはずである。

その非表象的な氷の部分が、ムードに近しいものである。例えば「冷たい」「溶ける」「水」といったことのみならず「氷室京介」だの「青」「減圧」「北海道」だの連想ゲーム的に飛んでいくはずである。

ムードという領域は、聴覚でいえば超音波や低周波に近く、視覚においては紫外線や赤外線に近い。人間には知覚が難しいとされながら、それでも人体に影響を与えているようなものだ。

弾性のある一面にボールをぶつけると、それは放射状に波打ってゆき、次第に消えるものだが、このように、あるひとつの言葉は、人間全体に波及し、効果を与える。

「言葉は霊である」というようなことは、極度に鋭敏な人間にとっては事実だろう。絵画などの芸術作品においても、ムードの支配する霊的な分野と公理的な、アカデミックな領域があるのであって、たいてい良い作品というのは、ムード=非論理によって描かれている。

そもそも、宗教の象徴的なものは、言葉によって紡がれてきた。ひとつに聖書があるし、もうひとつに、コーランがある。本来は口伝のギーターも現代ではよく読まれている。原初、言葉とは神的、霊的なものであった。というか、論理と非論理が未分化というべきか。

科学や哲学は万能のように扱われるが実際にはそうではない。たぶんに「ムード」を扱う必要のある心理学は、まだフロイト派やユング派が現存しているように、ほとんど宗教的な逸脱や決めつけが飛び交っている。ソシュールを始めとする言語学についても、これはずいぶん怪しい学問なので、ソーカルが爆弾を仕込んで学会に郵送し、これを内部から破壊した。

でもまあぼくがそれでも心理学や言語学を好むのは、科学の持つ限界性を認識しながら、その限界領域を飛び越えようという気概である。学問として異端であってもいいじゃない。真理に近づくには学問から逸脱せねばならない。

と長くなったがとにかくデスクと椅子がないのでやる気がでないのである。おまけに花粉がひどいのだ……。

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