3.07.2015

カツカレーは胃もたれする

四月から生活が一変する。

第一にぼくは学生ではなくなる。

第二に住む環境がド田舎の一軒家になる。

第三に社会人となり給料を得ることができる。

学生という身分はすばらしいものだったと今になって思う。ぼくはリア充とはほど遠い存在で陰惨な学生だったが、読書と音楽に出会い、それなりに充実した日々を送ることを知った。

私立だったから、周囲はまあまあ金持ちで、まあまあ教養があって、いわば上流階級的な社会的存在と触れ、東京でなければ一生知ることのできなかっただろう人種を知った。ジャズやクラシックといった音楽の楽しさも、こういう連中から知ったし、失礼にあたらないよう拒絶する絶妙な感情表現とかいった、上流階級特有の仕草もしることができた。

だがまあ、こういう連中など、もはやどうでもいいことだ。金を持っているとか、教養があるとか、これらは、皮相的なことでしかない。だれもがフロイトだの、ニーチェだのを読み散らかすが、ほんとうに読んでいる奴はいない。アクセサリー感覚だ。

東京に対するコンプレックスが消えたことは、良いことだった。この七年間の生活で、東京の虚像が消え、東京がもっているはずの求心力はまやかしだったことがわかった。これはたとえて言うなら、銀座のコハダよりも回転寿司のサーモンマヨの方がうまいぞ、ということと同じである。より正確には、ドイツの思想よりもインドや中国の方が行けるぞ、というのにも似ている。

とにかくぼくは東京を離れはたらくのである。田舎の小企業勤務である。海と山が近い。ぼくはなぜあんなところへ行くのか、たまにわからなくなる。それにしたって、人間というものはどこかに身をおかなくてはならない生きものである。いちいち、「なぜ私はここにあるのか」を問うていては、始まらない。

ぼくの実家は山中にあるのだが、夏に海水浴にいくたびに、こう思ったものだった。

「海というものは、なんてすばらしいのだろうか。水面の色は見ていて飽きず、白砂はやさしく足を包み、海中は不思議で楽しい生きものに満ちている。海の近くに住む人びとは、どれだけ幸福なのだろうか」

それ以来完全に海に取り憑かれてしまい、バイクで出かけるとすれば、必ず海へ向かった。そうして、だれもいないような岸辺で、海面と向かい合い、一時間でもぼおっとしていた。ときには、ひとりで海水浴して、波と戦った。

いったい、美しい海ひとつと、東京の都市が与える魅力、どちらが優れているのか。……ということを考え、ぼくは海を選んだ。


金ということについても、これから収入を得るということが、不思議でしかたない。今日、最後の家賃を振り込むために銀行へ行ったが、通帳の残高は15万円と出ていた。これは、ぼくにとって、非常な大金である。ぼくのこれまでの生活費は、だいたい一ヶ月に8万円程度だった。家賃を除けば、5万円である。このなかからやりくりしていたのだ。

今は、金を自由に使えるのだ、と思って少し贅沢をしている。それは、皿を洗うのにお湯を使ったり、カレーからカツカレーにグレードアップするような、ささいなことばかりだ。

しかし、実際のところ、冷たい水でも皿は洗えるし、カツカレーは少し胃もたれする。友人が口に運ぶのを見てあれほど憧れたカツも、思ったより薄く、油っこいだけで、さほどうまくない。生活レベルがあがったところで、あまりよいことはない。カレーがカツカレーになったところで人間は飢えず、しまむらのパンツからアルマーニのパンツに変わったところで、そこそこ快適なことには変わりない。100が101になった程度だ。

ぼくは早くから金に失望しているから、これからいくら稼げようが、あまり関係ない気がする。自分という人間は、金によって変わるのだろうか。貯金が1000万円もいったら、それを誇るようになるだろうか。なるのかもしれない。だが、1000万円で何をするのだ。何もしないのだろう。

人生に意味を見つけることが、難しい。結局、生の目的は、子どもだとか、家族とかに落ち着くのだろうか。芸術というものに一生を捧げてしまいたいという気はする。ただ、最近は文学や芸術にも、ある種の失望がある。

死というものが恐ろしくある一方で、死という終着点があるからこそ、いまを堪えしのげるという気がしている。

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