3.09.2015

Potato chips dialy

人間の幸福というものを考えると不思議である。

昨日など暇だったので、あまったジャガイモをスライスして、揚げてやった。ポテトチップスを作ったのである。それで、ジムビームをレモン入り炭酸水で割って、ずっと酒を飲んでいた。

この自家製ポテトチップスは、はじめて作ったのだが、あまりに美味なので感心した。揚げたての熱々感もそうだし、じゃがいものほくほくした分厚い感じもすごく気に入った(スライスが下手なのだが)。

本来のポテトチップスは、ここまでうまいものだったのだ。それが、工場で揚げられ、包装されてしまうと妙に味気なくなる。

市場のポテトチップスは、いろんな味が売られている。

うすしお以外にも、ガーリック味とか、コンソメ味、梅味とか、なかには「ステーキ味」なんていうのもあるが、「どん兵衛味」などというジャンクなものがあって、何がしたいのかよくわからない。

とにかく、自分で揚げてしまうのであればポテトチップスは塩で十分うまいことがわかった。

イメージ図

もちろん、それなりにコストはかかる。じゃがいも以外にも油やガス代がけっこうかかるし、油が跳ねるから掃除が大変だ。それでもこのうまさは病みつきになる。

愛らしい丸っこいじゃがいもを、ざくざくと切り刻んでいく気分も、一枚一枚、油に投入していく気分も、すばらしいものがある。水分が油中で気泡をたてる音や、じゃがいもがきつね色にあがる光景など、幸福を覚える。

これには時間的コストもかかることも事実だ。だから、忙しい現代人は、既成品のパッケージングされたポテチで我慢しろ、となる。これはほんとうに残念なことだと思う。

自販機の缶コーヒーよりも、豆から挽いた方が断然うまい。これに異論はないはずだ。

しかし、だれもが缶コーヒーを求める。忙しいからだ。彼らには豆を挽く時間も、ドリップする時間ももったいないと感じる。

自分の銭をわけてやりたがる者は見当たらないが、生活となるとだれもかれもが、なんと多くの人びとに分け与えていることか。
……実際多忙な人にかぎって、生きること、すなわちよく生きることがもっともまれである。(「人生の短さについて」セネカ)

人間は、実際、働きすぎなのだ。よく生活するため、身を粉にしてはたらく。対価は払われる。雀の涙のような賃金だ。そして、その四割は税金でもっていかれる。

これでは、働くだけ損だ。だれもが、そのことに気づかなければならない。例えパイロットだろうと、医者だろうと、働いている以上は、搾取されているのである。

国家や会社のためでなく、自分や家族のためだけにはたらく、そのような生活が本当のはずだ。だれかの所有物であるところの会社で、所有物である仕事を手伝って、それで賃金を得るという図式が、異常なのだ。

この自炊の楽しみは、延長してゆけば、農業も自分でやってしまえ、ということになるのかもしれない。

自分が大切に育ててきたものを、自分の手で加工し、自分で食すというプロセスは、まことに人間最大の喜びではないかと思う。

なんというか陳腐な表現ではあるのだけど。

ぼくは都会の生活を離れる。教授いわく、「負け組の行くところ」である。ところで、就職先の会社のオーナーの奥さんは、「都会では人間の生活ができない」と嘆いていた。

どちらが正しいのかはわからない、が……。

そういえばルソーを読んでいたらこんな記述があった。

人びとは、都市地区が、直ちに、権力と名誉とを独占し、やがて田園地区を下落させたと思うかも知れない。が事実はまったくその反対であった。初期のローマ人が田園生活の趣味を持っていたことはよく知られている。この趣味は、賢明な建国者から、初期のローマ人に伝えられたものだが、それは自由と、耕作並びに軍役とを結びつけ、技術、手工業、陰謀、財産、奴隷制を、いわば都市へ追放したのである。(「社会契約論」)

田舎に住むことが名誉として考えられていた時代もあったのだ。田舎と呼ばずに、田園生活と書くとたしかに豊かに思える。

隠遁者は、インドや中国の思想家に多い。アメリカではソローがいるし、古代ギリシャにはヘラクレイトスがいた。まあ大体の感受性豊かな人間は都市嫌いで人間嫌いである。無論ペソアのように都会を愛した人もいるが。

ぼくは完全な隠者になるわけではない。はっきりと社会的存在である、が、精神的には、隠者のように暮らしたいと思う。

何もないなかに、ぽつんとある一軒家は、実はゆたかなのではないか?と思う。日本の住宅環境は、世界でも最悪のレベルらしい。狭小なアパートに住んでいては、人間は、ちっぽけなままで終わってしまうだろう。

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