3.07.2015

zack ノンズ zack

いまは大学生活と会社生活の幕間の、短い休みなわけだけれども、こうして特にすることもない日々を過ごしていると、少しずつ自己が解体されていくような気分になる。

一日の仕事といえば、クリーニングにワイシャツをだしに行くだけとか、少しモノを片付けて終わり、というように、一日だれとも会話しないこともよくあるくらいに、ぼくの生活はある意味で貧しくなっている。

いちおう細々としたスケジュールはあるので、突発的にどこかへ行ったり、ということもできない。バイクで出かけるにも、どうも天気が悪くて、開放的な気分にはなれなさそうだ。

こうして何をするでもなく、日々が過ぎていく感覚は、大学の一年のときとか、春休み夏休みのときに感じたことだ。あのときも空漠とした時間を浪費していたのだ。味のない巨大なパンを食わされているような日常である。

いまと昔では、少し違うように思う。あのときは、言いようのない恐怖にかられて、友人の家に泊まりにいったり、女の子をデートに誘ったり、何かしらの行動を起こしていた。
休みを有効に利用できない自分は無能であり、異端であり、必要とされない人間なのだ、という恐怖があった。

ところが、今では、はなから自分は異端であると感じるし、無能で、だれにも必要とされていないことを知っているし、それに悪びれることもないことを知っているので、その点は解消されているのである。そもそも、長期の休暇というのは、だれもが羨み、同時に怖れるものだということは、定年退職後のおじさんを見ればわかる。

それでもどうも自分がうまく機能していない、こんなようではいけない、という感覚がある。

人間には一日八時間の労働が五日分必要なのかもしれない。ひとは本当に自由になった瞬間に、壊れてしまうものなのかもしれない。とりあえず飯を食べる必要があるということ、服を着る必要があるということ、そのために働かねばならないという必要は、人間にはある種の救いなのかもしれない。

過去を振りかえれば、稲作が始まって以来、ほとんどの人間にとって世の中はブラック社会になったのだが、それまでの狩猟民族たちは、一日三時間はたらけば、あとはもうはたらく必要はなかった。一日三時間、狩りをして、食うことはできるし、女連中は服をつくったり、木の実を拾ってきたりしてくれるので、もう本当にすることはないのだ。

彼らは退屈で死ぬことはなかったのだろうか。今のように、映画もないし、本もない。でも、実際のところ、彼らは楽しく生きていたのではないかと思う。子どもと相撲をとったり、談笑したり、ぼくのように陰気な人間は土いじりをしたり、粘土細工を作って自己満足していたのだろう。「働かずにいる」ことに罪悪感もなにもない。働く必要などどこにもないのだから。

日本の狩猟民族たちは女性を大切にしたという。女性の装飾品がたくさん出土されていて、男性は女性たちに装飾品を作り、プレゼントしたのではないか、と言われている。単純なユートピアに浸るわけではいけないが、女性を大切にする文化というのは、すばらしいものである。フロムが「愛とは何よりもまず与えることだ」と言ったことを思い出す。まあ、たぶん暇だっただけだろうが。

こういうどうでもいいことを書いてもしかたない。

最近、ノンズnonesという人種がアメリカで流行っているらしい。ノンズとは既存の宗教ではない宗教にはまる連中だ。信仰心はあるのだが、キリスト教を信仰するわけではなく、他のカルトに入信するわけでもなく、ただ自己とか、少しのオカルトを信仰するような連中である。

このノンズが、まったく自分そのものなので驚いた。ぼくも神道や仏教にはそこまで魅力を持っていない。大衆向けの宗教は、真理に到達できないという考えを、つねづねここで吐き出してきた。だから、このブログのタイトルにあるようにただ自己と語らって真理に到達しようと目論んでいるのである。

こうした考えは、きわめてぼく個人的なものだと思っていたが、遠くアメリカの地で同様の潮流があると聞いて、ユングの集合的無意識ではないが、人間とは、分かちがたいものなのだという実感を新たにした。

「宗教ではない宗教」が今後流行するのだろう。宗教ではない宗教とは、このノンズたちの信仰する原初的な、自己回帰的な宗教であって、出来合の神とか、聖書を信仰するタイプのものではなく、オリジナルの、セルフメードのものなのだろう。

この流れが良いことなのか、悪いことなのかはわからないが、既存の社会通念が疑われ、権力構造が覆されるような流れはあると思う。二十一世紀は人間価値観のリモデリングが始まるのだ。

というような遠大なことを考えていると退屈な日常も少し慰められるのである。今日もとりあえず、学校へ行って読書しよう。

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