4.01.2015

4・1

社会人一日目であるが、たいして感慨はない。普通の感覚で、普通に一日を過ごした。労働はたしかにつまらなく、味気なく、新人の立場は気をつかって面倒だった。

田舎の人びととの一日の労働を終えた。職場では東京出身(大学のOB)がひとりいるだけであとは全員地元出身だ。こういってしまうのは偏見かもしれないが、田舎の人びとは・・・。一次元的だ。

つまり重層的ではないのであって、人間的に深みを感じることが少ない。ヤンキーはヤンキーだし、オタクはオタクで一面的だ。もっとも都市部でも一面的な人間は多かったが、ぼくの興味をそそるような、この人は底知れないな、という人は少ない。

自然に考えれば、彼らがドゥルーズやカントを読むことはほとんどありえないことで、反対に、彼らがテレビ番組漬けであることは存分にありうることだ。

教養とは何か。音楽を知っている人間には音楽的視点が与えられるし、美術や文学についても同様だ。

宗教を学んでいれば、キリストや仏陀的な視点も与えられる。それは決して、意識上に表れるとは限らない。むしろ言葉にだして語れることはまれで、ある発言の些細な機微に、あらわれたりする。

そのようなわずかな教養の端々が、人間の深みを作っている。大卒が一般的に好まれるのはそのせいではないか。高校教育のような全般的教育ではなく、専門的知識を得たところ・・・。

ある民族衣装に精通する人間でも、ある有機合成反応をむさぼり学んだ人間でもいいが、そのような人間には、確固たる別視点があるのである。

壁にあるシミを見て「ああ、壁のシミだな」と考え、それ以上思考を深化させられない人は一次元的であり、そこから一歩踏み込み、美術的あるいは音楽的ーー哲学的でも宗教的でも科学的でもよいのだがーー 解釈を得られるひとが教養あるひとであるといえるだろう。


教養の要素がなぜクラシックにはありJーPOPにはないのか。なぜ名画には与えられバラエティ番組には与えられないのか。これは実際気になることである。

もちろんこの前提には多くの異議があることだろう。結局のところ「モーツァルト効果」はガセであったし、クラシックとJーPOPは同じ音楽なのだから対等だ、ということも理解できる。それは趣味の問題でしかない・・・と。しかしぼくらは趣味の問題に対しては沈黙すべきなのか?
友だちよ、あなたがたはわたしに言うだろう。趣味や嗜好のことは、争うべきではない。だが、およそ生きることは、趣味と嗜好をめぐっての争いである!
趣味とは、同時に分銅であり、秤皿であり、秤り手であることを意味する。およそ生きとし生けるものはで、分銅と秤皿と秤り手をめぐる争いを知らずに、生きようとするのは、救いがたい!
というようなことをニーチェが言っていた。

趣味こそ人間の本性が表れる。医者であるか、大学教授であるかはあまり関係がない。犬が好きか、猫が好きか。この程度の選択の方が、よほど人間には関する情報を与えてくれるものだ。

話を戻そう。クラシックは都会的だ。JーPOPは田舎的だ。JーPOPはまぎれもなくマスメディアが作り出した偶像だが、そのマスメディアは東京から発信されるのにも関わらず、東京人はかえって鼻白み、田舎の人々がより強く影響されていくのだから、皮肉な話である。

文化的荒廃のなかにあっても、田んぼの真ん中にあっても、何か救いを感じる。家を帰ったときに、内田光子のモーツァルトを流し、ドゥルーズを風呂で読んでいると、生き返ったような気持ちになるものだ。

まだ田舎に住んで間もなく、労働も一日済んだだけなのだが、学んだことといえば、結局、人生は苦役でもなく安楽でもないということだ。苦役と安楽の間、自由と不自由の間、そこを往き来すること、それが人生の本質なのだ、ということを感じる。

人間は、例え8時間を単純労働に沈めようとも、もしも彼が強ければ、その人生を豊かにすることができるのである。

教養というものが、もはやぼくに残された、すがるべき唯一のものになってしまった。

ぼくは惨めな人間だが・・・。人生に、何の不安もなくなってしまった。もう、人生、この生に、期待することもなく、したがって失望することもないだろう。ぼくの人生の大部分はもう決まってしまっていて・・・。20歳ぐらいのときまでは、人生は自分の意志で切り開くものだ・・・そのような感覚を持っていたが、そんなことはない。

人生は、もう、決まってしまっている・・・。それは、よくあるような懲役40年という話ではない。例え仕事を辞めて転職したとしても、ニートになったとしても、それは必然であり、ということは、決められてしまったことなのだ。

日本的な労働観は、ぼくのなかで完全に消えてしまったようだ。ぼくは仕事に喜びを見出そうとはあまり思わない。最上の音楽もyoutubeで聴けるのだし・・・。時間的な裕福さ、これが全てなのだろうと、個人的には感じている。

どんな時間でも自分自身の必要のためにだけ用いる人、毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。セネカ

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