4.11.2015

静かな土曜日

はたらくことになっても見知った日常が流れるだけで沈滞した鬱屈した日々はここ最近異常に多い雨天の空のようである。

人間を知っているとあらゆることに驚くことはなくなるのであって、会社組織も人間の結合体である以上はなにかの模倣、なにかの再発現であって、退屈な点では大学と変わらないし、良い点もまた大学と変わらない。人の醜いところも、人の美しいところも変わらない。

内的な面でいえば、変わる点といえば給料をもらっていることくらいで、これを考えるとたしかに妙な気分になる。

労働に対価が発生する気分としてはバイトで経験積みだ。ぼくは仕事に対して絶対に「一生懸命に」なりたくないたちだ。もっとも、責任感は持っているが、自分と仕事を天秤にかけて、仕事を優先させるような価値観は持ち合わせていない。

献身というものが嫌なのである。それに、コンビニでは大声をはりあげて「こちらあたためますかああああ?」などと吠えるのがサービス精神だと思っているようで、事実旅行にきた外人などはクレイジージャパニーズは時給7ドルでここまでやるのかと驚嘆するのだが、毎日コンビニを利用する身としてはうんざりしてしかたないのである。

労働賛美といったものが日本にはびこっている。個人的には生きていく必要以上に働きたいなどとは思わない。週三日の休日、午後4時に終わるような勤務形態であれば、月15万円でいいから働かせてくれと思う。

都市部では時給換算すると最低賃金を割るような企業が多いらしい。給料もでないのにサービス残業したり休日出勤をするらしい。いや、別に田舎でも同様のなのだろうが都市部のブロガーしか見てないのだ。

まったく考えられないことだが、仕事にはいくらかの「やりがい」というものはあるのであり、それはぼくが一週間の労働によって学んだことでもあるのだが、しかしそれは賃金がご飯だとすればごま塩のような調味料的なものであり、あってもよいがなくても構わないものだし、それにひとはごま塩だけを食べるものではない。

働くようになって感じたことは休憩はきっちりとって定時にあがることが大事だということだ、一時間の残業でもぼくはヘトヘトにへばってしまいミスを連発した。

ぼくの先輩にあたるひとは、大学のOBなのだが、本当に労働漬けだ。土曜日に午前勤務があるのだが、彼はそれをこなしたあと、20時頃まで残業して、日曜日まで会社にきて仕上げる。まったく超人的だ。しかも多分彼は残業申請をしていない。

ぼくは彼をあまり尊敬できない。尊敬とは、自分が成りたい対象にしか抱けない感情だ。

たしかに彼はすごいところもある、技術も知識も持っているが、なんだか悲愴なのだ。なぜそこまで身を粉にして働くのだろう。彼の奥さんが去年亡くなったと聞いたことがある。まだ彼を知ってすぐだから、彼がいつかパンクしてしまうのか、それが彼の平常運転なのかはわからない。しかしだれに対しても明るくフレンドリーな彼は精神的にずいぶん危ない綱渡りをしているようにも感じる。


もうひとりの先輩は会社に大変嫌われている人でもう辞めることが確定しているのだが、ドギツイ顔をした人で、ヒラメを包丁の尻でさんざん潰したような感じなのだが、ぼくは彼がけっこう好きだった。

ぼく自身彼が掴めず苦手だったがひとに好意を抱く理由なんて適当なもんで、彼の着ているセーターがしぶくてセンスが良かったことと、ぼくが偶然机に置きっ放しにしていた「宗祖ゾロアスター」に反応して、「宗教に興味あるのか。俺は禅にはまっててなあ」というので、「西田幾多郎とかですか」と生意気な発言をしてやったら、「君、西田読んだの?」「いえ、最初の数ページだけです」「だよなあ」とアホっぽい会話をした、それだけの経緯である。

宗教に対する感情は、大部分の日本人は「いかがわしいインチキ」としか思っていないはずだし、ぼくの会社のオーナーも社長も部長も同様だろう。しかし実はいかがわしいインチキであるカルト宗教は「日本労働教」であるのだが、このことはあまり知られていない。これは国家統制のイデオロギー的統治と地続きである、日本人が無宗教だなどという考えはちゃんちゃらおかしいのである。

戦後後遺症という言葉があるが実際はいまだ日本人は戦争をしているのだ。その証拠が死ぬまで働く日本人であり、イニシエーション的なシューカツ、ケンシューである。

日本人に必要なのはまず宗教の鞍替えであって、日本労働教の狂気から離脱することである。もっともそれは創価学会のような体制的組織に組み込まれても元の木阿弥であるのだから、とりあえずなにかの聖典を読んでみるべきだと思う。

禅もキリスト教も仏教もインド哲学も中途半端にしか学べていないぼくではあるが、その上司同様、労働教組織においては異端であり、おそらく彼は堂々と異を唱えたはずであるが、ぼくはといえばまだ臆病な隠れキリシタン的な立場であり、昼休みは一時間きっかり、18時になったら帰りたいような素振りをするくらいのささいな抵抗をしているだけである。

ともかく彼は数ヶ月以内にはいなくなってしまうだろう。おもしろい、深みを持った人間は企業にそぐわない。

だいたいこういう人間は学校という組織でも嫌われるものである。

最近日本のダメなところはいろいろ繋がりがあっておもしろいと感じる。例えば自動車やバイクのデザインはどうもちんちくりんでダサい。

あまりにもダサいので外国のデザイナーを使うケースが多いが、それでも最終決定権は幹部にあるので、結局ダサくなる。例えばある設計士がこれ以上なく優れた企画図と、ダメな企画図を持って行き、事実上前者を選ばせるように仕向けたところ、幹部会議で満場一致でダメ企画図を選ぶ、ということがある。

こうしたことがなぜ起こるのか、いろいろ考えてみたのだが、これだけ都市景観が醜悪で、電線だらけで緑なく、群生するプレハブ小屋とか、ケバケバしい看板に囲まれていては、良いデザイン感覚なんて持ちようがないのだろう。だから良い趣味をもった日本人は外国車を買うのである。

ともあれ日本という国家を深く知りたいものだと思う。教育という過程でおそらく日本という国家はぼくの精神にイデオロギー形成をしてくれちゃっているはずである。その毒素から自分を解放するのが当面の目標である。

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