4.13.2015

無知と恐怖のゴミ分別

海外ではせいぜいリサイクルゴミと普通のゴミを分ける程度であり、日本のようにビデオテープを捨てるのにしてもケースはプラスチック、テープは燃えるゴミ、シールも剥がして燃えるゴミ、ネジは不燃ゴミという風にいちいち分解して捨てなければいけない、ということはない。

ゴミという一面からも支配構造が見えてくるのである。一般に町内会は強制参加のように思われている、その理由は「町内会に入らないとゴミステーションが使えない」という実情があるからだ。

この町内会の殺し文句によって人々は「任意団体」に嫌でも入らなければならない。

現代人は個人主義的傾向があるということは言われているがそれは生活レベルの向上により個人がひとりでも生きていけるようになったからだ。

昔の農村であれば近所付き合いは大変濃密であった、農作業にしろ家事にしろそれぞれ助け合わなければまったく仕事にならないからだ。

その傾向は戦時中でも同様で、「非国民」的な扱いを受けた人々は近所住民から分断され不便な生活を強いられた。

しかし現代においてその必要はほとんどなくなった。それだから浮遊した無軌道な反社会分子が育つようになってきている。

当然ながら体制と反体制があって、その止揚によって社会が前進するのであり、「先進」国ではどこでもそのような形をとっている。

ところが日本はいまだ重度の監視社会と愚民政策によって事実上の官僚支配である。

そしてその一端が「ゴミ問題」なのである。

戦時中に町内会は市民による市民の監視のために生まれた、濃密な人間関係を作りだし、その中でボロを出した反乱分子は即座に憲兵に密告された。

現代ではゴミ袋に名前を書くことを事実上強制し、そのゴミの開示は町内会員の自由とされており、プライバシーもなにもあったものではない。

おそらくまともな知能を持った人間であれば先のビデオテープのような過剰な分別はバカらしくてやってられないものである。クソ忙しいなかでそんなことをする時間があったら少しでも休暇を取りたいし少しでも仕事を片付けたいだろう。

だいたいリサイクルの神話が事実ならいいが温暖化の根拠も怪しいもので、地球のためではなく大企業と行政を喜ばせるだけではないかと一度は考えるはずだ。

そうであるからだいたい知性的な人間はゴミの分別を怠るわけで、そういう人間が地域から閉め出されるか、地域と戦うか、諦めて地域に迎合するかとなる。

日本のように世界一分別が厳しい国でも「粛々と」分別が行われている理由はただ無知によるか、恐怖による。

「ゴミの管理が地域住民によって行われている」という事実が異常なのである。この21世紀になってインフラが市民任せというのか。

もっとも形式上は町内会は「任意団体」であるから、好き好んでゴミステーションの維持をしたがる団体があるので、市役所は少しの報酬を与えて仕事を委託するということになる。

しかし、町内会にいる人間のだれが「加入は任意」だと考えているだろうか?そしてだれがゴミの管理をしたいと考えるだろうか?

だれもかれも何も考えようとせず自分の行為を正当化したがる。「だって市役所の仕事が増えるだろ」「自分たちのことは自分たちでやろう」「なんでも役所任せにしてはいけない」「ゴミ捨て場の清掃をしない奴はゴミをだすな」「権利には義務がつきものだ」

こういう意見はネット上で散見されるが、バカな役人とバカな市民によってこの国は維持され強固な統制がとられているのだと思う。

ひとはだれでもゴミを出さねばならないが、その行き先が法律もなにもあったものではない特殊な団体(成り立ちから構成員の人格まで、法律よりも慣習が支配する組織)であることは正直恐怖である。

もっとも現代では人々は地域のアホと関わることなく生きていける。クソみたいな人間との関係は拒絶できるし、すばらしい人間とだけ付き合うことも可能だ。

人間関係はそれこそ「任意」の関係であって、別にだれと付き合おうが、だれを拒否しようが個人の勝手だ。それでも「同じ地域の住民だから仲良くしろ」という号令が飛ぶ。

これが「仲良しファシズム」であり、日本的教育の主要な教条である。

当然ながらクラスという狭い人間集団の中にはイジメっ子もいるし精神異常者もいる。極端に言えばクラス全員と話が合わないという人もあるのだが、そういう人間は孤立する。

仲良しファシズムはこうした孤立者を弾劾する。教師と洗脳された子どもたちによって、彼の精神は踏み込まれ矯正される。彼に人格の尊厳はないのであって、それは「彼が間違っているから」であり、「病気だから」、矯正されるべき精神なのである。この構図は町内会組織においても見られるし、また企業組織においてもよくあることだ。

無知と誤謬の上に立った笑顔と善意ほど恐ろしいものはない。しかし実際のところ、ファシズムのあるところに笑顔は多い。迫害は常に笑顔をともなう。

彼らの多くは自分を善人だと思っている。「俺ってなにも知らないしバカだけど、悪いことはしてねえよ」と思っている。

実際彼を無知にしているのが何者かはわからない。彼が悪いのではないことはぼくもわかる。たぶん低俗なマスコミが悪いのだろうし、質の悪い教育が彼の人格を作り出したのだろう。

上記のことを書いてきたがいまだぼくの家に「町内会関係者」の訪問はない。喜ばしいことである。

できるだけ隙を作らないように生活しているが、ゴミの分別だけはやる気が起きないので、一室がゴミ袋だらけになっている。

ゴミにあれこれケチをつけることが新参者の私的空間に乗り込み新参者を否定し矯正するイニシエーション的罵倒をするチャンスである(それはたぶん彼らの惨めな人生においては自分が優位に立っていると感じる恍惚的な瞬間なのだろう)。

だから陰湿な町内会であれば、新参者がゴミを出すのを虎視眈々と待っているはずである。今日は出したか。どれ、袋をあけろ。素性を探れ。資源ゴミが入っているな。家へ持っていけ、怒鳴りつけろ・・・。

そうはいくものか。

車が手に入ったら、とりあえずは焼却場にもっていく。その次には、市役所と交渉だ。自分は町内会という組織団体が宗教団体より苦手であるから戸別回収をして欲しい、と頼んでみようか。

もっとも市役所の手先が町内会なのだから簡単にはいかないだろう。

まあ上記は杞憂に終わるのかもしれないしぼくの地域の町内会もテキトーな活動しているゆるい団体かもしれない。そうであることを望むが・・・、町のゴミ袋をコンビニで買ったら「氏名と住所」を書く欄があったので頭を抱えている。いったい俺にどうしろというのだ?

「ゴミを出す」だけにこれだけ悩んでみたが、こんなことに悩む市民は日本人くらいのものだろう。本当にこの国は不便な国であり、不可解かつ不愉快な国であり、ゴミ捨て難民として国外脱出も辞さない気分である。




1 件のコメント: