4.15.2015

新入社員の心得

どんな愛情にもとらわれてはならない。孤独を守ろう。もしいつか、真の愛情が与えられる日がくるとしたら、そのときには、内なる孤独と友情との間に対立はなくなっているだろう。いや、このまちがいないしるしによって、あなたは友情をそれとはっきり認めるだろう。このほかの愛情はすべて、きびしく規律に従ってととのえて行かなければならない。(「重力と恩寵」シモーヌ・ヴェイユ)

昨日いろいろと本が届いた。「重力と恩寵」もその一冊。ぱっと開いたときに目についたのが上の文章である。



最近は仕事も多少覚えてきてそれなりに楽しく、というよりも「安心して」仕事をしている。基本的にみな優しく指導してくれる。

仕事がどうにも嫌だったのはバイトの経験があったからだろう。ひどかったのはコンビニバイトで徹底的に人格否定をされた上に、サービス残業とサービス早出を二時間ばかりさせられた。最後はいい年して大泣きしながら辞めたのだが、あのトラウマが今も残っていて自分は仕事などできないのだと烙印を押していた。

しかし仕事というものはだれにでもできるものだ。問題は、だれかと同じくらい仕事をこなそうとは決して思わないことだ。自分の限界値を知り、それ以上の仕事量がきたら、ノンと言い切ることだ。無理はしないってこと。

楽器の経験がすごく役に立っている。ぼくは楽器を8年続けていることになるが、もともと大学の部活で始めたものだから、大学にいた7年間、後輩の指導にあたる機会も少なくなかった。

そのなかで重要な知見をえた。

ひとつに、音楽には絶対的なセンスというものがある。簡単にいえば、粗野な人間、鈍感な人間には音楽は向かない。結局、音楽とは手指の運動ではなく、耳、感覚器官が大事なのだ。

もうひとつに、技量というものは、時間がないと身につかないということである。いきなり上手くできる人間なんて存在しないし、逆にある程度時間をこなせば、みなそれなりのレベルになる。

第三に、技量は「ひとに教えられる」ことによって育つものではない。むしろ教育がかえって阻害することも多い。技量とは、人との関係よりも、楽器との関係のなかで育まれるものだ。

この三つを統括するとどうなるか。センスという要素は、「自己」である。これを、「楽器(音楽)」という要素と、「時間」という概念でリンクする。そこに他者を介在させない。

つまり、シンプルに「自己」と「楽器」が接する「時間」が重要ということだ。自己を欠落させてもいけないし、また楽器(音楽)を欠落させてもいけない。

話がそれてしまったが、もともと言いたかったことは「最初はだれでも仕事が遅く、ミスをする」という当たり前の公理があることだ。この事実を事前に知っていることが、新人にとって重要だ。

それを知っていることのメリットはふたつあり、ひとつに自分のミスで上司が明らかに苛立っていたとしても、落ち着いて「次気をつければいい」と思える点にあり、第二に失敗をごまかしたり自分が有能な振りをしようとは思わなくなることだ。

第一の点はよく知られているが第二の点の方が重要で、これをしてしまうと大きく信用を損なう。ひとは仕事のできない人間は許せても嘘をつく人間は許せない。

仕事においてもうひとつ重要なことは「技量は勝手についてくる」という認識であり、仕事なんてこなしていれば勝手に技量がつくということだ。

このことを知っていれば今の自分に絶望することはなくなるはずだ。

もっとも、仕事にもセンスや向き不向きがあるのであって、仕事のできるAさんと同じ仕事をこなそうとしたり、同じスタイルの仕事を志しても、頓挫する。簡単な事実だが、あなたはAさんではないからだ。

自分のペースで仕事をこなすことだ。仕事と自己の関係がすべてで、ここに他者を介在させてはいけないということだ。

目の前の仕事に集中することだろう。

もっともそれを許さない企業も日本では多い。わざと膨大な仕事を任せたり、難しい仕事をさせて精神的・肉体的に追い詰め、人格矯正や洗脳を行う企業もあるだろう。というか、そういう企業が多いのだろう。

だいたいの人間が、そういうイニシエーション的過程を経ると変わってしまう。仕事に異常なほどの価値を求めてしまう。空疎な「やりがい」を無限にまで広げてしまう。人生のための仕事から、仕事のための人生へ・・・。

大学の知性的だった友人が「社長を目指す」と意気込むようになってぼくは失望したことがある。社長なんてお山の大将じゃないか。それに、君が勤めているのは知名度も実績も大したことのない企業じゃないか。報酬だって、残業時間に比べてあまりにも少ない・・・。

まあ彼は「やりがい」を見つけてしまったのかもしれない。

一体「やりがい」とはなんだろう?仕事は確かにある種の達成感を与えてくれる。自分が役に立っているというような実感はある。それはバイトのような単純作業でも、芸術のような独創性が求められる作業でも、さして変わらないだろう。それは仕事それ自体に内在する要素だから、理解できるものだ。

ところが、労働の「やりがい」とは、高度にイデオロギー的概念である。つまり、実態を伴わない。

仕事が与えてくれる普通の達成感がある。第二に、金銭の与える報酬がある。これらの自然的感情と、ある意味で狂信的な「やりがい」は相容れない。

存在しないものを信奉させ、そこから搾取するというのは、まあ「いつもの構造」と言えるのかもしれない。それはゴミ分別や町内会と根底では通じていくのだろう。

話があちこちに飛んだ。「やりがい」とはおもしろい概念だから今後も考えていきたい。



冒頭のヴェイユの言葉はぼくによく響いた。というのも職場の人間に多少の愛情を感じる機会があるからであり、そういった自分を戒めなければならないからだ。

 またあなたの愛情の発作をも警戒するが言い!孤独な人間は、たまたま出会った者に、すぐ握手を求めるようになる。
 たいがいの人間には、握手するための手をさしだしてはならない。前足をわたせばいい。そしてわたしは、あなたの前足が猛獣の爪を備えていることを望む。(「ツァラトゥストラはこう言った」の「創造者の道」より)

ちっぽけな世界、ちっぽけな組織で生きるぼくにとってこれは難しいものだ。人間との関わりを冷淡に処理していかねばならない。





0 件のコメント:

コメントを投稿