4.16.2015

詩人よ詩人たれ

感覚器官が敏感なのだろう。

すなわち神経質ということでもあるのだが、外部からの情報や刺激に対して人よりも負荷の高いぼくは、日常を過ごすことが快適であるというよりは、不快であることが多い。

それというのも社会は基本的には「無神経」だからである。

画一的な学校教育では体育会系的な鈍感・愚直な人間が喜ばれるのであり、そうした工業製品的に生産された大衆は、自分のしていることは正しいと思っているし、自分は幸福だと思っている。実際彼らは上手に大企業に入り込み、世間的な勝ち組になることも多い。

自分を支配しているイデオロギーを疑うこともせず、その存在すら知ることすらなく、従って彼はひとつの道具=奴隷に自分を貶めているのだが、そんなことは夢にも思わない人間が社会の大部分を構築しており、したがってともすれば反社会的=自己志向的になりがちな神経質な人間は、社会的に生きづらくなっていく。

神経質な人間は、無神経な人間集団のなかにある限り、アリ地獄の中のように下降せざるをえない。

ex.「電車のアナウンスはうるさくないか?音量もでかいし無駄なことばかり言っている」と言うと、首をかしげるバカばかりだ。


もっとも、どんな人間であっても、ただ自己を追求し、自己を知ることができれば知性的な人間になることができる。

鈍感な詩人はあってはならないし、神経質な戦士というのもあってはならないものだ。

詩人に生まれついたのに詩人にならないことは罪だ。ところが、だれもかれも戦士になることを強いられる。

ところで、詩人?

というのも詩人にとっては、人間も物も、思想も夢想もまったく同じだからである。詩人が知っているのは、彼の前に浮かび上がるさまざまな現象だけであり、彼はそれを悩み、悩みながら幸福なのである。(「詩人と現代」ホーフマンスタール)

この言葉が最近のぼくをとらえていて、結局のところ、科学に対するオカルト的領域とは、現象を現象として捉えることなのだとぼくは思う。

このあたり、勉強をしてないからよくわからない。ただ、昨日「閑静な住宅地はスラムだ」と書いたが、現象として考えればスラムと日本の住宅街は通底している。

現象とは、論理以前の領域であり、西田風に言えば純粋経験ということになるのかもしれない。

それは言葉以前とは言わないが、原初的な言語レベルで了解される感覚把握のこととぼくは考える。あくまで比喩的表現だが、表層意識に対する潜在意識と言えるかもしれないし、脳神経に対する脊髄反応と言えるのかもしれない。

そういえばサルトルの短編の中で、青年が「あいつらは、それを握ってしまう!」と小馬鹿にするシーンがあった。「それ」とはスプーンである。恋人の父親が、食事を口に運ぶのを小馬鹿にしているのである。

当然スプーンは握るべきものだし、握らないでどうするのだという気にもなる。

しかし、一本のスプーンを前にしたぼくらにとって、握る以外の選択肢もあるはずだろう。

その選択肢をつらつらと書こうとしたが、書くたびに違う!となる。スプーンを芸術的に考察したり、人格に見たてたり、とか、そういうことではないのだ。スプーンという現象を捉えること、それは、「スプーンが春だ」とか、「スプーンは窓だ」というように考えることなのだ。スプーンが窓や炎や上司や陰茎になる領域、この逸脱、すべておしなべて自己の前に平等に並べること?なのだ。わけわからん。

ともあれ、ここで、握らないスプーンが、すなわち現象である。厳密に言えば、握り、握らないスプーンが現象なのだろう。

そういえば筒井康隆の作品に、「みそ汁の中に社会が見えます」で始まるいい感じのファンタジー短編があったがこれも似たようなものだ。

このあたりは勉強不足であり今後も追求していきたい領域である。ロジェ・カイヨワの「斜線」がけっこう良さそうなんだよな。まだ読めてないけど。

結局ラリったような認識、統合失調症的な認識が詩人の領域ということだろう。

宗祖ゾロアスターは「真理に到達した人」であるが、ただそれだけですごいのではない。彼が当時、「ゾロアスターってすごい!」と思われていたのは、「大麻を使わずに真理に到達した」からである。

なんじゃそりゃ、という気分であるが、元来芸術や宗教といったものは大麻のような「ラリる」気分と不可分だったのだろう。

中島らもを持ち出すまでもなく小説家、芸術家、音楽家はラリパッパなものであるし、草間彌生のように統合失調症の人間も多いものだ。そういえば大麻を使用すると統合失調症のリスクがあがると言われているが、「現象」的に考えれば自然なことである。それは同一の現象だからである。

現代は「健全な社会」だから、ラリパッパは牢屋に、精神病患者は病院にそれぞれ閉じ込められるけれども、それはどういう理由によるのか。このあたりは、フーコーを読めば掴めそうである。結局、権力や支配と関連してくる。

かつては、みんなが大麻を楽しんでいたし、精神病のひとも呪術師として活躍した。

日本は大麻に対して世界一厳しい国と言われるが、それも町内会と同じ統治の一環なのかもしれない、ということを考えたりする。

ああ、会社行きたくない。


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