4.17.2015

フライデー・フライデー

木曜日に疲れのピークに達し、今日は一日寝ても、その重みを引きずっている。

仕事はきっちり18時に終わる。公務員を除けば恵まれた方だろう。それにしても、なぜこんなにも辛いのだろう?

大した仕事ではない。肉体的にも、精神的にも。ただ、つらいのだ。職場という場が、苦手なのかもしれない。

大学でそれなりに精神の均衡を保っていたのは、嫌なときには欠席して、家で寝転がっていたからだ。

というか、ほとんど授業に出た記憶がないのだが・・・。

一日8時間、実際の労働時間は8時間半だが、この時間は恐ろしく長い。

労働は苦役だ。

今日だって、身体が恐ろしくだるく、労働を拒否している。体調不良で休めたら良いのだが、やはり恐ろしいのは同僚の目だ。

日本的な企業は、学校のクラスと変わらない。陰湿な相互監視によって成り立つ。

俺と同じ苦しみを味わえ、さもなくば、許さない。このルサンチマン的な感情が、社会や組織を安定させる秘訣だ。それはゴミ分別・町内会・PTAである。

個人に集団が優先する。法律に慣習が優先する。

数年でこの仕事を辞めるつもりだ。何か金を稼ぐ手段を得たいものだ。そうすれば、ぼくは日本を離れるだろう。

失望しかない国だ。程度の低い国だ。何もかも気に食わない。惚けた国民の顔を見ると、蹴飛ばしたくなる。

ぼくは仕事ができない。もとから、労働に向かないことは知っているが、二週間働いて、それに気がついた。

別に大した問題ではない。仕事など、まじめに取り組むべきものではないということを知っているから、人より仕事ができないのだ。

「民衆はしばしばよりよき知恵をもつ。必要なことのみを知るがゆえに」とラクタンティウスは言った。

労働力を提供し、賃金をもらう。それだけの関係だ。同僚諸君よ、君はぼくの兄弟ではないし、上司諸君よ、君らは母親でも父親でもないのだ。

必要な仕事は、してやろう。ただ、それは自己実現のためではない。金のためだ。

やすやすと魂を売る気はない。ぼくの人生は、余暇の方にある。ちんけな仕事は苦役だ。そんなものに、君は生命を賭けてしまう。君は経営者のパシリであることに、誇りを持つのだ。

本来人間が命がけでするべきなのは、自分本位の「道楽」なのであって、「仕事」はしょせん、お客様のご要望にお応えする他人本位の奉仕に過ぎない、と夏目漱石は言った。

それにしたって、労働をしているときの、精神も肉体も労働を拒否する感覚は、自分でも驚くほどだ。

「もう嫌だ」という感覚で、肉体が重く痺れ、精神は灰色に押しつぶされ、思考がぼんやりし、自然と涙が出てくる。

ひとは疲れると目が赤くなるが、実のところ、彼は泣いているのだ。つらい、つらい、と。本人も気づかないものだが。

日本という国は、国際的な統計によると、仕事に対して世界一「やりがい」を求める国であるらしい。

日本人のもうひとつの特徴は、金銭的報酬を重視しないことである。

やりがいとは何だろうか?考えてみてもわからない。

ちなみに、オランダも同じくらい「やりがい」を求めるという。

ただし、「仕事に対する満足度」という項目では、オランダ国民は世界一仕事に満足しているのに対し、日本は下位に位置している。

個人的には、仕事に対する報酬が十分に与えられてからやりがいを追求するべきだと思う。

低賃金、サービス残業、休日出勤の日々のなかで、せめて「やりがい」という空疎な報酬を求めたいと人は思うのかもしれない。

そうでなければ、自分の行動を合理化できない。そりゃそうだ。タダ働きを本人の意志でしているのでないのならば、それは「奴隷」だ。

しかし、だれも自分を「奴隷」だと認めたくはないだろう。

だから代償的に「やりがい」を求める。俺は仕事が好きだからやるんだ。社員のみんなのためになることが好きだから仕事をするんだ。

日本では労働は美徳だと考えられている。アリとキリギリスの話が大好きで、高学歴のエリートビジネスマンは尊敬されて、浮世を生きる売れない芸術家・音楽家は落伍者としてバカにされる。

その結果が文化的貧困でありエコノミックアニマルである。

それにしても、よくもまあ、ここまで洗脳しきったことだと思う!教育の力か、マスコミの力か。だれもかれも正しく生きることをせず、したがって「だれかのために」生活を潰している。哀れなことだ。

ともあれ、今日は金曜日だ。余力はないが、仕事へ行こう。

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