4.19.2015

司祭・戦士・市民

生活が完成した。

昨日、通勤途中にあるバカでかい文化ホールへ行ってみた。

金がふんだんにかかっているようで並の私立大学よりモダンできれいだ。このド田舎の山の中にこんな施設があるとは知らなかった。

中には図書室やカフェやセミナー室がある。で、図書室へ行ってみた。期待はしていなかった。というのも、ここの住民の文化レベルの低さは知っているのである。

駅前の書店にはほとんど「ちくま学芸」だの「みすず」だの「岩波」だの文化レベルのバロメーター的書物は皆無で、その代わりに焼き直しのビジネス書とくだらない新書で埋め尽くされている。

おまけにここの住民は、休日にすることといえば釣り、であれば上等だが、残りはパチンコというのだから救えない。

だから図書館には期待していなかった。「はらぺこあおむし」があれば上等なレベルだろうと・・・。

しかし、なんということか!岩波文庫コーナーがあったのである。ゆうに数千冊の岩波文庫が、ずらっと並ぶ。なんという光景だ!

金塊を探りあてた気分だった。神は我を救いたもうた!ぼくは「ろうそくの科学」をつかみとり、涙をぼろぼろ流しながら、崩れ落ちて天を仰いだ(ウソ)。

ともかく最高の時間の過ごし方である「静かに読書する」場と、岩波文庫という武器を手に入れてしまったぼくの生活は、ついに円環がつながり、ここに完成したことになる。

もっとも、岩波文庫は最低限の教養であるから、浮いた金でウニベルシタスなどを買おう。

まったく運命とは不思議なもので、知を求める人間には幸いな場所を提供してくれるものである。まさか、10分の通勤途中にあるなんて・・・。

ありがとう、仏陀キリストムハンマド、ゾロアスターにクリシュナよ。

運命は、知を求める人間が、怠惰に生活していくことを決して許さない。自分の運命は受け入れて生きてゆこう。

もっとも、岩波文庫だけでは不十分だろうから、浮いた分は(法外に高い)ウニベルシタスを買う金にしよう・・。



「ソクラテス以前以降」によれば、ソクラテス以前のギリシャでは、哲学はただの自然科学だったが、ソクラテスの画期的な点は「いかに生くべきか」という人生の根本命題を問うたことにある。

ソクラテスはこの世の始まりがどうとか、物質は原子からできているとか、そういう教えを一切しなかったし、感心を持たなかった。なぜならそれらが「わかりようがない」からであり、「役に立たない」からである。

「いかに生くべきか」と問われたギリシャは動揺した。商人はより多くの金を稼ごうとし、医師は人を救おうとした。それだけを考えていればよかった。しかし、金を稼ぐことがほんとうに良い人生なのだろうか?人を救うことがつねに正しいのだろうか?人々は立ち止まって考えなければならなかった。

そこで三つの主張が生まれた。ひとつは、人間は快楽を求めるべきだ、という考え。もうひとつは、名誉が人生に重要だ、という考え(死すべき事物にかえて不滅の誉れを・・・)。最後に知が重要だ、という考え・・・。

議論好きのギリシャ人たちはああでもないこうでもないと議論したが、答えは出なかったという。そんで、ソクラテスは知を重視したから、(知=善という立場)なんとなく以降のギリシャでは知恵が大事ということになっている。

ただ、ぼくが思うに、バガヴァッド・ギーターにすでに答えがかかれている。つまり人間は三種類にわけられるのであって、「市民」「戦士」「バラモン(司祭)」である。それぞれ、快楽、名誉、智慧を追求する。この性質はなかば生まれ持った性質であるとされて、だからカースト制でひとびとは生まれたときから区分される。

まあインドのカースト制はなんともいえずもやもやする類の代物だが・・・。

ギリシャ人はだれもが平等だと考え、すべての人間に通じるイデー的な人生命題があると考えていた(奴隷はいたが)。プラトンにつながるそういう素地があった。しかし結局のところ人間はそれぞれに違うのだから、市民として生まれついた人は市民として快楽に生きるべきだし、戦士は戦士として名誉に生きるべきなのだろう。

ギーターの影響を受けたカースト制の三角形構造においては、バラモンがもっとも階級的に高く、戦士はその次、市民はもっとも下位に位置する。

これはプラトンの「君主論」においても同様なことが書かれている。つまり知を愛する君主こそが最良最善の、すなわちイデー的な君主である、ということである。知を愛する人が人民を統治すべきであり、戦士や市民が権力を握るとろくなことがない・・・という考えは、ギリシャもインドも変わらなかったし、現代の歴史家のいくらかも認めることだと思う。(古来の日本でも、卑弥呼=巫女が権力のトップだった)

ただ今日の文脈では、ぼくは自分をバラモン的だ、高貴なのだ、俺を総理大臣にしろ、と言いたいように思われるだろう。鼻持ちならない傲慢な文章はいつものことだが、しかしそういうことを言いたいのではない。

ぼくのまったき新しい考え方をここに提示したいと思うのだが、「市民」「戦士」「司祭」といった分類は、ひとつの「つまみ」によってなされるのである。

それは「感覚の鋭敏さ」である。結局のところ、人間の性質はこれによって決まる!

極度に感覚が鋭敏な人間が司祭である。彼らはひとの気づかないことに気がつく。細かい差異を見つけられるし、遠大な構想を練ることもできる。それは霊感とか、神通力とも言える領域だ。キチガイじみた独創性によって、科学や芸術領域においても実績を残す。

反対に、感覚が鈍い人間がいる。彼らは痛みに強く、また死を賭した闘いを前にしても物怖じしない。勇敢さをもった人間が、戦士だ。兵士だけでなく、商人やスポーツ選手にも向いているだろう。

そしてその中間に位置する、一般的な感覚をもった人びとが、市民である。彼らはまさに市民的であり、戦士と司祭の両者に付き従うことによって力を発揮する。

重要なことは、バラモン的な人間は稀少であり、戦士的な人間はそれよりも少し多いくらい、世の中の大部分は市民で構成されているということだ。つまり、感覚の敏感さを横軸にとれば、歪度が負の値を示す(左に傾いた)正規分布を示すということである。これがカースト制の三角形構造の理由である。

金が鉄よりも価値があるように、少ないということは、尊いのである。

それにしても感覚器官の鋭敏さがきれいな正規分布を描かない、戦士>司祭であるのは不思議だ。たぶん出生数は同数なのだろう。ただ、感覚が鋭敏な人間は、それだけ負荷に弱いということでもあるから、病弱であることが多いし、肉体的あるいは精神的病気によって死んだり社会の表舞台に出てこないのかもしれない、と予想する。戦士はその性質から、めったに病気にならないものだし。

感受性の過剰さこそ病気の入り口、直接的原因である。ひとが神経衰弱に陥ったり、強迫観念に取りつかれたり、ペシミストになるのは、脳の出来とか、暗いものへと向かう精神を持つからではない。過敏だからである。ひとつひとつの感覚が苦痛となり、それを分析し、苦い味わいを持つからである。神経衰弱のすべてはこうした感じ方、分析の仕方のうちにある。『医学と現代のペシミズム』

人間の性質は、神経の鋭敏さによって決まるのだ。これが、おそらくもっとも人間を決定する要素だ。

アメリカのどこかの大学が、「音に敏感な人間は天才であることが多い」という研究結果を出していた。例によって、ぼくは自分が天才だと言いたいのではないぞ、といちおう付言しなければならないのだが、ともあれ、これは真実だろう。というか、当然の帰結である。

感覚器官の鋭敏さが、司祭を生み、知を追及させる。感覚器官の鈍感さが、戦士を生み、名誉を追及させる。人間とは、これだけなのだ。

これは少し、ダーウィニズム的な考えだ。とは、夢やロマンがなく、科学主義だということだ。共同体が生き残るためのには、多様性がなくてはならない。極度に知的な人間がなければ、人類は前進できないし、極度に勇敢な人間がなければ、外敵にやられてしまう。市民だけの共同体は滅びるしかないし、司祭や戦士だけでも同様である。

ぼくは上記を、人間社会を知る上で良い武器であると考える。

現代日本の嫌なところは市民がバラモンや戦士の上に立っていることである。それはちょうどオルテガがもっとも倦んだ社会である。その傾向は、拡声器や防災無線による騒音の撒き散らしに表れているし、人質の見殺しも、戦士のメタファーとして考えることができる。安部という人間を見ればわかるように、誇りも知性もない小市民的がこの国のリーダーである。

だから、バラモン的人間がこの日本で充実した生を得ようというのなら、田舎に隠遁するか、海外に亡命するのが得策なのである。

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