4.20.2015

狂気と孤独

昨日昼頃から恐ろしい憂鬱。

午前中は市民ホールで楽器の練習をし、午後からは自動車の納車があった。

どう考えても「すばらしい日曜日」だ。ただ、楽器はぜんぜんうまく演奏できなかったし、初めてのマイカーも、なんだかイマイチだった。

自動車の運転とは、芋虫の体に加わることである。バイクと違って、奇妙な圧力が加わる。車間距離も、走行速度も前後の車に指図されているような不快感。

田舎だからというのもあるだろう、だらだら走っていると煽られる。

車とは、こんなものか、と思う。まあ今日のような雨の日には助かるが・・・。


憂鬱は突然やってくる、影も音もない。ほんとうにだれかがコントロールしているようにも思う。ぼくの憂鬱のスイッチが押されると、ぼくはおもしろいように反応する。一気に体が重くなり、嘔吐感に襲われ、四肢はしびれ、世の中を呪うようになる。

ドラクエでいえば全世界の平原や森が毒の沼になったようなもので、動けば動くほど体力を削がれる。

ネットスラングで精神障害者は「電波」と言われていたが、これはなかなか良い言葉だ。統合失調症の解体した文章、「言葉のサラダ」とも言われる症状は、ひどく混線したラジオを思わせる。

このぼくの憂鬱にしたって、どこか遠くの不幸とか、それを受信しているのかもしれない、と思うことがある。

これはオカルト的な領域になるが、人間はすべてを知ることができる、とぼくは思っている。できる、というか、すべてを知っているのだ、と思う。

ただ、それはスパゲティに振りかける1μgのタバスコのようなもので、それだけで「タバスコだ、辛い」などと思う人が皆無なのと同様である。

あまりにぼくらの知覚は目の前のことにとらわれている。まあ、目の前の仕事よりも幾何学の定理を気にかけていたら首になるわけだ。生きていけないのだ。

脳が環境を生き抜くための情報「削減」装置であるならば、ぼくらが知り得たはずの世界的情報は、脳みそがフィルタリングしていることになる。

ある意味で脳の機能が弱い人間、つまり感受性豊かな人間、霊能者や司祭、芸術家は、ひとが知り得ぬ領域を知ることができる。

精神疾患は脳の障害と関連があると言われているが、おそらくそのとおりなのだろう。ただ、脳の障害がアルツハイマーのような認知記憶的な障害を生むとは限らず、かえって優れた性質を表すこともあるだろう。

なぜなら、疫学的には人類の1%は常に統合失調症の患者である。統合失調症患者は世界に数千万人いることになる。

これは生物的な「アクシデント」であるというよりは、必要から統合失調症患者が生産されている、と考える方が合理的だ。


天才とキチガイは親戚だとだれかが言ったがそのとおりで、統合失調症はその「才能」を活かすことができれば常人の達しえぬ業績を残すことができる。

しかし、大衆は彼らを恐れると同時に、羨んだ。凡愚であるところの自分を呪った。だから、大衆が力を持った現代では、こうした能力者たちは社会から排除されねばならなかった。

いつの世も、世界は恐怖と羨望で動くものだ。

なんか能力者というと中二チック、だけど。

ぼくは統合失調症ではないけど、彼らに関連する書籍を読みふけった。狂気とはなにか、知りたいと思った。

それは狂気という世界への憧れだった。

理性が解体したものが狂気だと、そんなことが言えるのだろうか?実のところ、理性の上に狂気があるのではないか?

純然たる感覚を都合よく切り落とし編集したものが理性的感覚ではないのか。

だれもかれも、世界の真理に到達できない。ある人はドラッグを使うし、ある人は瞑想して真理に到達したいと願う。それにしても、真理とはもはや狂気なのではないか?

イプセンの「民衆の敵」では、「いかにも、私はキチガイだ。真理のキチガイなのだ。」というような言葉があった。

大衆社会において、真理を叫ぶものは、自然、キチガイとならざるを得ない。

そう、たしかに気が違っているのだろう。民衆の預かりしらぬ真理という領域がある。

真理を求める人間は、孤独だ。恐怖と羨望によって、排斥される。

孤独が天才を作り出すのか、天才が孤独を望むのか。

「私の習性は、孤独によるものであり、人間達のものではない」と、ルソーだったか、セナンクールだったかが言っていた。いずれにしろ、それは私と同種の精神――あるいはこう言ってよければ、同じ種族の精神なのだ。(「不穏の書、断章」ペソア)



孤独であること!それをぼくも望みたいものだ。

ひっそりと、だれの干渉もなく生きていきたい。肉体と肉体の干渉、視線と視線の干渉は、ぼくには荷が重すぎる。ひとと一緒にいて、安らぎを感じることはなかった。つねに恐怖と苛立ちと嘔吐があった。

昨日ぼくは「生活が完成した」と書いた。自分でも笑ってしまったのだが、まだ当然恋人はいないし、友人のひとりもこちらにはいない。それなのに、生活が完成した、充実した人生だ、なんて言えるひとはなかなかいないだろう。

自分の人間軽視に笑える。しかし、社交とはテレビのようなものだ。なければない方が良い、捨て去るべき慣習。

嘘笑いと嘘笑いの共鳴。さしのべた握手の手は真実、あべこべの方向を向いている。毒を食らい、時間をドブにすてて、ああ楽しかった、充実した一日だった・・・これが社交というものだ。

現実のぼくは夏休みが明けるのを恐れる大学生のときを思い出す。今日から5日間、人間関係を耐えしのがねばならない。

たしかに、人間関係はときに力をくれるものだ。充足感をもらえるものだ。ただ、それを得るためには、恐ろしい量の支払いをしなければならない!

ドブさらいをしていても、充実感はある。

そういえば、昨日は日曜だというのに、朝の8時からぼくの借家の前の道路をドブさらいする集団があった。

正直言って、恐怖だった。本当に家のすぐ前で、こちらから作業風景が見える。数人の男たちの野太い声と、がりがりというスコップをあてるような音が部屋の中を支配した。

窓を開けっ放しにしていたのだが、閉めようか迷った。外からこちらが丸見えだ。しかし、それは当てつけに映るだろう。「お前がのんびり遊び呆けている間、俺たちは働いているんだ」という空気が、窓の外を支配していた。

外から男たちが消えると、心底ホッとした。血圧が下がった。ほんとうは音楽練習に行きたかったのだが、全身が硬直し、一歩も動けなかった。

あのような風習は、ぜひ辞めて欲しいものだ。怖い。怖いのだ。家の前を知らない人間たちがたむろしているというのは、ほんとうに恐ろしいことだ。

仕事で作業しているのは構わない。しかし、ただの市民がそこにいるのである。これは、怖いことだ。不審者集団が家の前を占拠している、とあやうく警察を呼ぶところだった。

それにしても、なぜこんなに恐ろしいのかわからない。大げさかもしれないが、ここしばらく味わったことのない恐怖だった。

ああ、今日も仕事にいかねば。今日こそ、へばってしまうかもしれない。ぼくは労働に向いていないのだ。



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