4.22.2015

汚泥の山のぼれ

この国の民は死ぬまで働く。

みなで働かなければ豊かさを維持できないから。経済大国で豊かな暮らし。「繁華街で豪遊」がみんなの目標。なんでも食べて、好きなだけセックスする豊かな人生。そのためならば同僚を蹴落とし、家庭は崩壊する。

だれもかれも、職場の競争に躍起になる。汚泥の山に登りたがる。

事実、社長は神で、上司は神の使いであった。「もしも神が存在するのであれば、どうして自分が神でないことに耐えられようか!」

みな、目指せ、トップになれ、これがオリンピック精神である。ほんとうの勝者は、箱庭の戦場にはいないのだが。対価としてはあまりにも粗末なメダルと、ちんけな賞金。

怪我をすれば勲章を貰える、命を落とせばもっとだ。これが軍隊の恩情だ。したがって、顕現する統治である。



最近仕事に疲れて疲れてしかたがない。疲れがとれないのだ。四月初旬に比べるとまるきり肉体が老化してしまったかのようだ。

考えてみると、日曜日にすでに倦怠感がひどかったのだから、今週がボロボロなのも仕方ないのかもしれない。

それでも十八時には帰るし、出社は八時半で良いのだが、それだけが救いだ。

しかし、それからの時間は怠惰にしか過ごせない。せっかく良い図書館を見つけたのだから、毎晩閉まるまで読書をしようと思ったが、そんな気力はない。

仕事という引力が、ぼくから何もかも奪いとっていく。

豊かな生活を得るために、生活を犠牲にしている。

「奪われる」のか、「犠牲にしている」のか。

ぼくを動かしているのは、本当に自己か。環境と、他者の意志が、ぼくを休まずに働かせる。

調べると、アメリカの初任給は40万円で、日本の初任給の倍らしい。バカバカしいことだ。大卒初任給の20万円など、ドラム式洗濯機と、低グレードの電子楽器を買えば消えてしまう。

それにしたって、日本市場のドラム式洗濯機はバカ高いのだ。それはいまだに「外に干す」風習があるから、海外のように競争原理が働かないのだ。

ここにもすばらしい日本精神が働いている。合理性よりも慣習、苦労は美徳、労働時間に比べてあまりにも粗末な一人当たりGDP・・・。

電子楽器にしたって、ユーザー数があまりに少ないから、日本では高くなる。

それに、象印やティファールではない、少し洒落た電気ポットを買おうと思うと、イタリアとかドイツから輸入しなければならない。(それにしても、イタリア製はやっぱり故障が多いらしい)

だれもかれも生活の質を考えないから、市場はゴミのような製品で溢れかえる。それはサービス残業が蔓延する理由と同じだ。だれも声をあげないから、結局市民が苦しくなる。

絵画ポスターを買ったから額縁を探したが、どこにも売っていない。代わりに売っているのは、「賞状を飾る」あのオジさん臭い額縁ばかりである。いったい、アホなのか、賞状が何になる、そんなものを日々眺めるのか、それが望みか、と拳を胸に叩きつけながら問うてみたくなる。

だからニトリに行ってシンプルなこと以外何の価値もない安い額縁を四つ買ってやった。言っておくがニトリは家具におけるしまむら洋品店であり、あんなものを「オシャレ」とか「ステキ」と思ってはならない、決して・・・。

実のところアマゾンで検索してもろくな額縁はないのでびっくりする。それほど需要がないということだろう。

生活を豊かにするという概念がない。テーブルや椅子は安ければ安いほどいい。そんな金があったら、寿司でも食うし、フィギュアでも買うし、パチンコにつぎこむよ、これが大衆文化だ。

「重要なことは、金の使い道をつくることだ」とある経営者が言っていた。

そう、金を使う先はいくらでもある。ぼくが買った30万円の車は、300万円の車と比べるとほんとうにおもちゃだ。しかし、300万円の車だって、1000万円の車とは雲泥だ。

ぼくらは三角形の上に登るよう、常に強いられている。金はそのための道具でもある。

汚泥ノ山登レ、これが日本精神である。

繰り返すが、だれもかれも、生活のために生活を犠牲にしている。

だが、豊かな生活とは、もうすでにあるのではないか?仕事を辞めて、したい生活がある。夜は車の中に泊まり、朝から晩まで図書館に引きこもるという生活。

この生活に身を投じてもいいかなあ、という気がする。ぼくに必要なことは、精神に栄養を与えることなのだ。肉体を満足させることではない。











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