4.23.2015

雑記でしかない

どちらかといえば、諦めて屈従した人間の方が美しい。

世の中はどうにもならないことだらけだ。それに対して、どう対応するのか。一時的に逃避するのか、諦めて受け入れるのか。

身体が労働に適応していく。精神の鬱屈さと比べて、仕事をする手先はスムーズになっていく。それにしても、ほんとうに嫌なものだなあ、仕事は!

せめて、週の休みが三日あれば、4時には帰れれば、ぼくの人生は、ずっと充実するのになあ。昼休みが終わって、「あと4時間半働かなければならない」というときが、いちばん絶望する。

明後日は給料日だから、それだけが楽しみだ。しかし、金で何が買えるのだろう?もう、車も、ドラム式洗濯機も買ってしまった。生活に必要なものは、すべて・・・。

あとは、インターネットがさえ繋がれば、(まさか契約から工事まで一ヶ月もかかるとは!)ぼくの生活はもう満足できるレベルだ。

初めの月こそ生活費に3、40万円かかったが、今となっては、買わなければならないものは、日々の食品と、酒くらいだ。

 あとは、老後のために働いてゆくのだろうか?

そう、普通に生きている人間なら大きな出費がある。マイホーム、結婚式、教育費。でも、どれも本当に必要かは疑問だ。教育なんて、親がするものでしょう?

仕事をする、という感覚がよくわからない。何のために仕事をするのか?ひとびとは言う、「やりがい」のためだ、と。

実際のところ、空疎な人生を何かで埋めたいのではないかと思う。大学時代、スケジュール帳が予定で埋まらないと我慢ならない人がいた。ぼくはといえばスケジュール帳なんて持ち歩いたことはなかった。用事なんてなかったからだ。

もちろん待ち合わせをすっぽかしたり大事な講義を欠席したことはあるけど、なんのことはない、大抵のことは何とかなるものだ。

時間という拘束がぼくには嫌でたまらない。時間に追われて仕事をすることはブサイクだ。イケてない。人生を無駄にしている。少しくらいの遅延や遅刻には寛容になるべきだと思うし、少しくらい遅れただけで平謝りする必要はない。

仕事を愛するひとは、だれかに命じられたいのかもしれない。あるいは多くの人と関わりたいのかもしれない。

たしかに、仕事を通じて感じたことは、命令されることにも喜びがあることであり、そして、たくさんの人と関わることができるということである。

つまり「やりがい」の中には、「出会い」という要素があるわけだ。

結局、人生の意味とは、ひととひととの関係の中にしかないということだろう。もちろん、生身の人間を愛せる人は、それでいい。

ただ、ぼくはといえば、現実の人間にはあまり価値を認められないのだ。少しばかり期待をもったとしても、すぐに失望する。もともと対人恐怖の気があるから、深い人間関係が構築できないという理由もある。

コミュニケーション能力というブームは完全に過ぎ去ったようだ。「だれとでも仲良くできるスキル」なんて気持ち悪いだけだ。あの当時はだれもが演じられた人形のような喋り方をしていたと思う。みな人気者になろうとしていた。おもしろい話をさかんにして、ときには「聞き上手」になりたがった。

バカげたことだ。

人間は怖い。怖くてたまらないものだ。それでも、人間は必要だ。人間に対する感情は、恋慕に似ている。つまり、恐怖が最優先するということだ。歪な感情がないまぜになるということだ。

人間関係は、信頼で成り立つのではない、まず何よりも不信だ。あの通行人は俺を刺そうとしているのではないか、職場の同僚は俺を嫌っているのではないか、恋人は浮気しているのではないか、家族は俺を疎ましく思っているのではないか。

一旦生じた疑念が、強固に人間を結びつけていく、その関係は密接に、肉と肉のすれあう音がするほど、激しくなっていく。

ぼくは、人間関係の狂気を知っている。ぼくも嫉妬の感情にかられて、恋人に辛くあたったことはあるし、クラスの友達と関係がうまくいかなくて、夜を泣き明かしたこともある。

ひとと当たり前のように接すること、これが難しい時期があった。距離感がつかめないというか・・・。他者に何もかも求めすぎたのだ。とは、自分を軽視していたのだ。だから、自分という源泉からすべてを得ようとしている今では、他者はどうでもよくなった。

ぼくに恋人はできるのだろうか。できたら、ここに報告しよう。金は、まあまあ、顔は、そこそこ、運動神経はない、服装のセンスはふつう、トークはバツ、口べた、将来性は・・・あやしい。

ぼくに恋人は似合わない。自分で想像しても笑ってしまう。

もう会社に行く時間だ。木曜日の朝は、少しは気が楽だ。

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