4.28.2015

存在と現象

最近は肉体が流動化してきたのか、仕事も無意識的に行えるようになってきた。

朝に少しの絶望を感じたつぎには、すでに夕方になっている。仕事に対する感情は、消えていく。喜びもつらさもない。やりがいなんてものは、当然ない。一笑に付すべきものだ。職場のひとたちとの人間関係も、深みはなく、希望も失望もなく、平坦なものだ。

以前は、一時間が経つたびに、「時給にしていくらだ」、ということを考えていた。対価を意識していた。その感覚も消えて、仕事が日常に空気のように浸潤して、もはや対価のことは考えなくなった。職場の人間たちも、背景である前に、それぞれが人間だった。その過去を、未来を、想像してみたりした。それでも、いまは、この職場のひとびとは、この市のひとびとは、背景となった。

それは見ようと思えば見えるもの、しかし、さりとて興味のわかないもの。

欲しいものが、もうない。金は必要ではない。生身の人間も、必要ではない。ぼくに必要なのは、かえって「なくす」こと、つまり、貧困と、自由と、孤独である。この3つは、それぞれ独立するわけではない。貧困は自由であり、自由は孤独である。それは同質で溶け混じったひとつの現象だ。

世界は現象である、と思うのは、ゾロアスターについて書いた翌日に高野山へ向かったことだ。大して歴史にも興味のないぼくが、貴重な休日を何時間ものドライブに費やして、なぜ高野山へ向かったのだ?

帰り道、ずっと首をかしげていた。なぜぼくは高野山へ行ったのか。なぜいまこの山道を運転しているのか。ぼくの深層心理が、ゾロアスターと高野山を結びつけていたのか。それとも、高野山に「呼ばれた」のか。

科学的説明は前者であり、宗教的な説明は後者である。しかし、科学と宗教という区分は不適だ。どちらも群盲象を評す、でしかない。

第一の事実は、ぼくが高野山へ行ったということだ。この理由を解明することは実際的には不可能だ。

宗教も、科学も、人間に利益を与える。人生をゆたかにするための知恵だ。科学は、たしかにドラム式洗濯機をぼくに与えた。宗教も、ぼくにある温かみや勇気を与える。宗教的な考えも、科学的な考えも、人間の生活をある程度ゆたかにする。

しかし、すべてを教えてくれるわけではない。そういったものではない。あくまで、「実利的なもの」だし、知恵としては不完全だ。知はすでに内在するものだ。おそらく賢者といった類の人に、宗教はなく、科学もないだろう。世界は現象である。

それはペソアの言ったことと同じように、「完璧であるためには、存在するだけでいい」。

オルテガの言うように、「それゆえ人間の運命は、まずもって行動である。われわれは考えるために生きるのではなく、かえってその反対に、存在し続けるために考えるのである」

疲れてきた。まじめな話はもういいや。

君はあのとき俗世界に飛び出すかわりに、思索家になったとしたら、不幸を引き起こしたかもしれない。つまり君は神秘家になっただろう。神秘家は、手短に、いくらか大ざっぱに言えば、心象から離れることのできないような思索家であって、言い換えれば、全然思索家ではない。神秘家は、おもてに現れぬ芸術家、すなわち、詩句を用いぬ詩人、絵筆を持たぬ画家、音を発せぬ音楽家だ。彼らの中には、このうえない天分を恵まれた高貴な精神があるが、彼らはみな例外なく、不幸な人間だ。君もそのひとりになったかもしれない。そうならずに、ありがたいことに、君は芸術家になり、形象の世界をものにした。(「知と愛」 ヘルマン・ヘッセ)

「詩句を用いぬ詩人、絵筆を持たぬ画家、音を発せぬ音楽家」とは、なんという悲痛な生だろうか。芸術という行動がある人は幸いなり。

ぼくにも芸術が欲しい。ぼくがしていることといえば、こうして文章を起こすことか、たまに楽器をもてあそぶくらいのことしかない。それ以外は、灰色の人生であって、まったく救いがない。

腹が痛い。腹の痛みは精神にも影響がある。当然だ。いまこうして考えていることと、ぼくの肉体は、同じ現象だ。歯痛にさいなまれた人間が書く小説は、まさしく歯痛的だろう。

芸術家を知ろうというとき、そのひとの人生を考えたがる。ニーチェは梅毒だった、女に振られた、そういうことが、人間の思想を説明することになる。やっかいなスケベ根性だ!でも、それは正しいのだ。きっと。

こういうことを書いているときに、ぼくは、精神のすべてをさらけだしている気分になる、注意深い人物であれば、ぼくの人と成りを探り当ててしまうだろう。新宿の混雑の中にあっても、ぼくを見つけだすだろう。

今ははっきりと、不調だ。いったい「パワースポット」とは、パワーが得られるところなのか、それとも反対にパワーを奪われるところなのか?

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