4.29.2015

ソクラテス・プラクシス

たとえばある人間が国家だとか教育とか世間の慣習に支配されていようと、それは自由の喪失とはならない。
左翼は、自己決定を顕揚する議論に対して、しばしばこんな批判をしてきた。自己決定は幻想である、自己決定だとみなされていることは、本当は、社会構造によって、権力によって、要するに超越的な他者によって規定されているのであって、真の自己決定でない云々。こうした批判は、自己決定論にとって何の打撃でもない。自己決定は、本来、まさにそういうものだからである。 
自己決定は、自己決定ではない限りにおいて――超越的な他者に準拠している限りにおいて――自己決定たりえていたのだ。自己決定にとって本当の脅威は、自己決定が実は他者(による)決定だということではない。逆である。自己決定が本当に純粋な自己決定になっているということにこそ、自己決定にとっての真の脅威があるのだ。自己決定は、自己決定として純粋化されたとき、ついに自己自身を解消してしまうのである。(「自由という牢獄」大澤 真幸:強調著者)

「超越的な他者」というキーワードは、「神」とか「世間」のような、恒常的に存在するが、つねに第三者的であるような視点をさす。こうした他者があるなかで人は行動してきた。

「自由」が至上命題となった現代社会で、なぜわれわれは息苦しく生きているのか。そういった逆説的な現象の説明として、大澤はこの「超越的他者」の喪失をひとつの理由にあげている。

現代に生きるぼくらの生活は確かに自由である。たとえばぼくが日本に嫌気がさしたら外国で生活をしたい、と思うことは自由の端的な表れである。かつては海外移住、どころか海外旅行さえ一部の特権階級しかできなかった。農民であれば一生を村の中で過ごして、それ以外の生活なんて考えられなかった。ところがいまのぼくは、アジアやヨーロッパの数々の国を比較し、ここは生活費が安い、ここは景観がいい、とスマホでも選ぶ感覚で吟味することができる。

ぼくらには国家も神もなくなった。世間もなくなった(ついでに言えば「見えざる手」もピケティによって死んだ)。それは自由を追求する社会によって、代替可能なものに、なければないでかまわないものになった。ところがこの快適な社会が、まさに自由の行き着く先の社会が、「自由という牢獄」を生み出すのだと大澤は指摘する。

ぼくらがある行動をするとき、それはあるイデオロギーのせいかもしれない。たとえば市町村の同調圧力が、市民を「日曜日のどぶさらい」に駆り立てるのかもしれない。しかしそれをして彼の自由意志が侵害されることにはならない。

純粋に彼の行動が彼自身に帰属されるとき、そこには責任がなく、したがって自由が喪失される。つまり「自由によって責任が生ずる」という論理の逆転を大澤は示している……のか?

責任とはまずもって他者の存在を必要とするものであり、自由とは個に内在するものではなく他者との関係のなかで生じる。大澤はこの他者の存在を「超越的他者」としているのである。

他者から責任が生まれ、責任から自由が生まれる。

重要なことは、自らの存在を選択し、引き受ける主体となるためには、どうしても他者による承認を媒介にしなくてはならない、ということである。自分自身にとっては、自らがこのようなものとしてこの世界にあるということは絶対の必然であって、それを選択の対象とすること(偶有的なものとして扱うこと)はできないからである。他者のみが、それを「承認」という形式で、選択の対象であるかのように遇することができるのだ。

極端なまとめかたをすれば、他者との関係のなかに自己があるということだろう。責任を担いうる=主体的な自己とは、他者との関係を切り離した先にあるのではない。逆に他者との関係の中にある(……ここで、他者とは神でも国家のような、原理的に第三者であるところの他者)。

すなわち「自己とは、自己と環境である」。



他者のいない世界は存在しない。つまり世界=他者である。

自由は個にすべてを還元した。個人は切り離された原子になった(アトミズム)。しかし切り離された原子は、その表象の示すとおり、世界=他者から遠くなる。世界の希薄化は、生の空虚さを生む。ここに生の貧困、ソクラテスの提示した「善き生」からの脱落が生まれる。

というわけで、ここにひとつの公理ができる。「世界=他者=責任=自由」である(?)。まあJ.S.ミル的な「自由論」も、サルトルの「アンガージュマン」も、還元すれば、この「世界=他者=責任=自由」を追求しろってことなんじゃねーの?

だからオルテガが言ったように、ひとは確かに孤独に引きこもりがちで、観想の世界に引きこもりがちだけど、重要なことは、「そこから戻ってこなければならない」ということだ。つまり、そこから他者との関係を回復しなければならない。
それゆえ人間の歴史を通じて、そのたびごとにより複雑に、そしてより豊かな形をとって周期的に繰り返される三つのそれぞれ異なった契機があることになる。1 人間は物の中で難破し、自己を失ったと感じる。これが自己疎外である。2 人間はエネルギッシュな努力を傾けて、自己の内面に引きこもり、こうして物について考え、それをできるだけ支配しようとする。これが自己沈潜であり、ローマ人たちのいう観想的生活vita contemplativaであり、ギリシア人たちのいう思索的生theoretikosbios、すなわち思索theoria である。3 人間は予定計画に従って世界に働きかけるため、ふたたび世界に没入する。これが行動であり、行動的生活であり、プラクシスplaxisである。
したがって行動はそれに先立つところの観想によって律せられていないならば不可能であり、またその反対に、自己沈潜は未来の行動を立案する以外のなにものでもないのである。(「個人と社会」オルテガ・イ・ガセット)
行動とは、他者との関係を回復すること以外の何ものでもない。

このプラクシス、行動的生活が、アトミズム的な現代社会からは欠如しているのではないの?他者との関係を回復すること。他者、すなわち自由の世界に沈潜すること。

話は飛ぶが、現代純文学の問題点は、自己沈潜して、そこから帰ってこないことだろう。

たしかに現代的な大衆は、まずもってテオリアの領域まで行き着いていないけど、オルテガの言う「観想的生活」に到達したとしても、そこで満足しちゃダメだ。たしかにそれは相対的に見れば優れた領域だけど、そこから、プラクシスへ行かなければならない。

プラクシスはたしかに痛みの伴うものだが、臆病な人間でも、テオリアから抜け出さなくてはならない。それは原子論だのなんだのの論議に参与せず、ただ「知の実践」を追求したソクラテスのように。

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