4.30.2015

コンピューター神経症

朝、強烈な不快感で目覚める。胃の調子悪く、嘔吐感あり、全身のだるさ、筋肉の痛み、頭痛、鼻づまりあり、神経の方は著しく過敏で、近所の家の犬の無駄吠えに殺意沸く。

しかし今日も仕事だ。

工業製品としてのぼくはこのような自分を抑えねばならない、予測可能な人間、日々のルーチンを着実にこなす、よきコンピューターでなければならない。よきコンピューター、記憶容量が大きく、情報処理能力が高く、エラーを吐かない。すなわち日本の受験エリートたちはコンピューターである。それは永遠に「使われる」ための道具でしかない。

しかしそれはぼくのような田舎のルーザーでも変わらない。なぜならぼくはエリートコンピューターに奉仕するポンコツコンピューターだからだ。

まあとにかく人間がいくらCPUを目指したところでそれには到達できない。だから世界は神経症化する。CPUの視点では、世界は道具化する。金を稼ぎ、最大限ゆたかに生活する場となる。そのための「価格com」である。つまりコストパフォーマンスが世界の原理となる。出る金と入る金、これが道具的人間の世界のすべてである。金銭は数値化される。CPUの性能も「GDP」「株価」「偏差値」という数字に表される。それは数字的世界である。数字的世界とは、ピュタゴラスの世界である。

ところが、人間の内なる声はつねに悲鳴をあげつづける。精神は抑圧され、破壊される。当然、人間の精神はコンピューターになりえない。そこに「否」の精神が発露する。ときにその感情は燃え上がり、ついに人間を殺す。それがための中央線飛び込みである。戦争だろうと、自殺だろうと、人は死に続ける。とうぜん、彼らは自ら死を選ぶわけではない。死に追い込まれるのである。

死という誘惑に警戒せよ!

ところで、警戒とは、索敵し、発見し、直視することだ。小さな誘惑を、見つけてあげること。見つけて、保護してあげることだ。「知」とはまなざしなれば。母親のもつ注意深さで自己を観察すること。

知ること、人間の精神を取り戻すこと、工業製品的社会に、まずもって否を突きつけること、巨大な理想から離れて、自由を知ること。

「知」とは、静かに深呼吸すること。体を楽にすること。浮遊すること。流れること。



よくわからないポエムを吐いて学校へ行く。あ、学校じゃない、会社なのだ・・・。

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