5.16.2015

苦しむことについて 2

神経過敏、焦燥感、イライラ、易怒性。

昨日は酒を飲まなかったが、その離脱症状が出ているのだろう。なにしろ一ヶ月くらい、毎晩酒を飲んでいたのだから。酒量も日を追うごとに多くなっていき、初めはチューハイ一缶で済んでいたものが、二缶、二缶+ウィスキーと際限なく増えてゆく。最後の方は記憶がなくなる。寝ゲロはないが、何度か夜中に起きて戻しそうなこともあった。

職場の十歳上の先輩より顔が老け込んでいる自分に驚いた。まあ、ぼくは酒と煙草を毎日やるし、彼の方は武道をやるというのだから、十歳差なんて逆転してしまうのかもしれない。

それでも、一日低気圧だからということもあるのだろう、「こんなはずではなかった」「この世にあってはならない」という気持ちになり、見えない壁に押しつぶされるような気分と、体と精神が蒸散してしまうような気分が合わさる。

でもまあ人間は苦痛だらけの生き物だ。というか、生きるということは環境に晒されることであり、環境に晒されるということは、基本的には過酷であるに違いない。

中原博通という、ブロガーというかイラストレーターというか文筆家がいて、「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」というブログをぼくは好んで読むのだけど、彼の人間論はなかなかおもしろい。人類が二足歩行を始めたのは、その方が生きやすいからではない、その方が無能になるからである、と彼は言うわけだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、身体能力を大幅に後退させる体験だった。その姿勢はとても不安定で、胸・腹・性器等の急所を外にさらして攻撃されたらひとたまりもなかった。それは「生きられない」姿勢だった。なのに人類は自然界で生き残ってゆき、さらにそこから進化発展していった。進化発展してゆかなければ生き残れなかったともいえる。つまりそうやって猿よりも弱い猿として歴史を歩みはじめた原初の人類が生き残ってくることができたのはその社会(集団)が無能であってもなんとか生きてゆけるような仕組みになっていったからであり、そのとき誰もが「生きられない無能なもの」になってゆき、誰もが「生きられない無能なもの」である他者を生かそうとしていった。彼らが二本の足で立って向き合うことには、そういういわば介護し合う関係になってゆく体験をはらんでいた。

独特な考えではあると思うけど、そういえば岡本太郎も同様のことを言っていた。「人間が樹上の生活をやめ、危険の多い地上で生活し始めたのはそれが楽だからではない。挑戦であり怒りであった。」というようなよくわからない「太郎節」だったと思うが、岡本太郎が芸大中退、中原氏が多摩美中退ということだから、根底であい通じるものがあったのかもしれない。

ぼくとしてもこの考えは支持したいと思う、人間とはなんぞや、この奇怪な生き物はなにか、と考えてみると、たしかに「苦痛」という感覚はすべての生き物と同様かかえているけれども、この「苦痛を受け入れること」、ここに人間としての特異点があるのではないかなと思うのだ。

生きるということは苦痛だが、それを知りながら苦難を受け入れること、これは人間以外すべての動物に不可能なことだ。ラットに刺激を与えれば、すべてのラットは逃避反応を示す。刺激を与え続ければ、やがてストレスで死ぬ。しかし人間はといえば、かえって苦痛を認め、そこから超越することを学んだ。

だから原罪という観念が生まれたのは、必然だった。原罪は神の与えたものであるから神聖なものだ。キリスト教において人間は生まれながら十字架を背負うのだが、これは苦痛を神の恩寵(=神聖なるもの=絶対的肯定)として認めることだ。
わたしの中にある罪が、<わたし>と言わせるのだ。
わたしはすべてである。だが、そういう<わたし>は神である。それは、一個の<わたし>ではない。
悪が区切りをつくるのだ。神がすべてとあい等しくなるのを妨げるのだ。
私が<わたし>であるというのは、わたしの悲惨のためである。ある意味で神が<わたし>である(つまり、一個の人格:ペルソヌである)ようにするのは、宇宙の悲惨のためである。(「重力と恩寵」シモーヌ・ヴェイユ)
環境はつねにわれわれに苦痛を与える。一戸建てを借りたところで、ドラム式洗濯機を買ったところで、環境はわれわれを責め苛む。というか、われわれ自身が環境中に常に苦痛を「見つけ出す」といえるかもしれない。

ぼくらの平常は苦痛にあふれている。この感覚が、大切なのだとぼくは気づいた。つまり、平凡な人々は、「なんでもないような日々が幸せだったと思う」のであるが、なんでもないような日々は常に不幸と苦痛で塗りつぶされている、それは幸福でもなんでもないのだ。知ることとは不幸になることであり、不幸になることとは、知ることである。

今頭のなかで「能動的ニヒリズム」という言葉が渦巻く。結局ニーチェの影響なのか。つまり能動的ニヒリズムとは、人間への回帰なのだろう。

そういえばシモーヌ・ヴェイユも、カミュも、「バガヴァッドギーター」の影響を受けていたと最近聞いた。おもしろい本だ、ギーターは。

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