5.22.2015

苦しむことについて 3

自分のしていることの価値も、自分がなぜここにいるのかも、知らない。

自分が身を投じているちっぽけな職場も、おもしろみのない仕事も、なにも自分の精神に影響を与えない。

労働はなんらかの効果を及ぼすと思っていたが、かえってその空虚さが意外だった。日常は灰色に潰される。

だから、ひとは四十年働ききったあとに、何もなかった人生に絶望するのだろう。返して、と、ぼくの人生を返してくれ、と嘆くのだろう。

人間の生は、苦痛には耐えられるけれども、空虚さには耐えられないものだ。苦痛はむしろ、人の精神を深化させるものだ。だから、われわれは十字架を求めるのだ。

人は、存分に苦しむべきだ。

会社という環境が、ひとを管理してくれる。管理されると、ひとは苦しみから解放される。

そうだから、フーコーの言説を借りて、「人々は管理されているんだ!」と告発したところで何も変わらない。真相は、「人々は管理されたがっている」という点にあるからだ。

だからまあ、ひとびとがぐうたらであることは仕方のないことだ。それは楽だからだ。怠惰はあらゆる情熱の覇者である、からだ。

労働漬けの方が、人生を考える必要がなくなる。「私の生はこれで良いのか」という命題も、「私はなぜ生きるのか」という命題も、もはや頭をちらつくことすらなくなる。



ぼくの人生はといえば、相変わらず、楽ではない。楽なときもある。でも、半日楽だったと思うと、こうではない、こうではない、と脳みそが締め付けられる思いがする。

人は飢えるべきだし、人は孤独であるべきだし、人は痛みを感じるべきだろう。断食したラットの方が健康な肉体である、という。

管理された人生は灰色だけれども
数々の呪詛が
労働者の生活に
架空のいろどりを与える

架空のいろどり、それは昇給や昇進、高級車や、飾り立てた女たちだろう。

最近考えたのだが、観覧車は太陽のメタファーで、ジェットコースターは山、スプラッシュマウンテンは川なんだと気づいた。お化け屋敷は深い森だ。メリーゴーランドは天体?かよくわからないが、ともかく、われわれは、自然の中での楽しみや恐怖を、遊園地という人工物のなかで得ているのだと知った。

しかし、遊園地などバブルが過ぎたらばたばたと潰れてしまったことが示すように、それは架空のいろどりでしかない。模倣品は、どこまで追求しても模倣品。本物には敵わない……。

高級車も、それは架空のものだ。

最近、あることを考えた。

生活のなかに、一台の高級車があること。一匹の猫があること。どちらが豊かだろうか?

The Cat - Gwen John, 1905-1908

明白にコストがかかるのは前者だが、その喜びは、後者の方が大きいだろう。単純な事実だが、しかし、そのことにぼくは驚いた。

考えてみれば、車やバイクを保有することはペットを持つ感覚と似ている。

好きな車は眺めているだけで楽しいものだし、一緒の時間を過ごすことを喜ぶものだ。そうして、エンジンの動力に感動するときも、それは動物の能力に驚嘆するときとよく似ている。



労働者たちの生活を彩っていた呪詛は、もうその効果を失わせてきている。

かつて、ひとはがっつりと働いた。ラジカセ、ビデオデッキ、スポーツカー、CD……欲しいものがあったからだ。しかし、「しまむら」とか「吉野家」、「ダイソー」が世の中を埋め尽くしてしまうと、しだいにこうも考えたくなる。

金なんて、要らないのでは……。

金を使うことの喜びが消えると、経済社会は破綻する。

そうだから、今度は、消費の喜びにかえて、金を失う恐怖を強めることにした。老後は金がないと生きていけない……と、ひとびとは思わされている。

その恐怖で、ひとびとは貯蓄にかりたてられ、そうして、高齢者の三分の一は2500万円以上の貯蓄を得るにいたった。

でもほんとうに金がなくなれば、生活保護で生きていけるものだ。国民の生活は憲法で保障されているのだから、実は何の不安もないのだ。

それでも、メディアが恐怖を植えつけるから、老人たちは騙される。老後が不安だ、と。そうして利潤を得たのは保険会社や、投資会社だろう。

愚鈍なひとは、生活を奪われた上に、その報酬すら持っていかれる。何もかもふんだくられるというわけだ。



何か辛いことがあったのなら、服を買いあさったり、焼肉を食べたり、ガールズバーにいかなくても、静かな海辺で、ゆっくり夕日を眺めていれば、それで精神は楽になるものだ。

偽者を買う必要はない。本物がいたるところにあるからだ。それに気づいてしまえば、もう金に執着することはなくなる。

恋愛もひとつの執着だ。

彼女のような人には
二度と会えないかもしれない

これは錯誤だ。なぜなら、あらゆる人間は、根本において同質だからである。

人間の根底に流れる神性に気づくこと、これさえできれば、あらゆる人間を愛することができるだろう。……ぼくはまだこの領域には達していないが。

孤独であることが、あらゆる人間を相対化する。長い孤独のなかで、ぼくの精神は独立したと言えるだろう。人間(じんかん)にあって迷わず。

ヴェーダによれば、純質の知恵は始め苦しく、あとに幸を与える。激質の知恵は始めに快を与え、あとに苦を与える。

ぼくの精神も、そろそろ楽になりたいものだ。もう十分苦しんだよね。

社会は悪で、孤独は善です。そして孤独な人間は本当に他者を必要としません。それは自己充足的存在です。エピクテトスは、本当の財産は私たち自身のなかにある財産であると教えてくれはしなかったでしょうか。モンテーニュは他人から借りることを止めて、自分の中からのみ汲み出せと忠告してはいなかったでしょうか。(「はかない幸福―ルソー」ツヴェタン・トドロフ 某ブログより……)

孤独はいいものだ。

ぼくは苦しんだ
世の中の
たいていの人間よりも苦しんだ
そうして
もがいてきたのだ
絶望の海で
溺れ死ぬ寸前だった

自分は人よりも苦しんだ、とはっきり言えることは、良いことだ。稀有なことだ。

神経症を患った短い人生のなかで、わずかな報酬があるとすれば、私は苦しんだ、という確信ぐらいのものだ。

だから、この確信を大事にしようと思う。

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