5.24.2015

苦しむことについて 4

苦しむこと、それは精神を深化させることである。

ニーチェの思想を理解する上で重要な対概念がある。それは「健康」と「病気」だ。

肉体において……
  • 健康な人間は運動し、肉体に負荷をかけることで、能力をつけ、成長する。
  • 病気の人間は刺激や運動を遠ざけ、安静に臥すことで療養する。

これを精神に転化したのがニーチェの考えである。

すなわち、
健康な人間とは、生存が苦痛に満ちたもの、無意味なものであることを教えるペシミスティックな認識、生存への意欲を毀損し、生存に敵対的に作用するような認識を真なるものと認めることができるばかりではなく、自らの健康のために、生存を一層無意味なもの、一層苦痛に満ちたものにするようなペシミスティックな認識を真なるものとして欲求し、自分のために捏造する意欲すら持った存在を指すと考えねばなりません。このような健康な人間こそ、ニーチェが「強者」と呼ぶ存在に他なりません。(「知の教科書 ニーチェ」清水真木)

だから、既存の価値観によりそうような、プラトニズムやロマン主義といったものをニーチェは批判したわけだ。

ルー・ザロメ(左)への求婚を即座に拒否されなぜか上機嫌のニーチェ

最近、ペシミスティックな考えを受け入れることが大事だと、繰り返してきたけど、なんのことはない、それはニーチェの考えだった。

自分のオリジナルな考えってないものだな。何年か前に、ずっとニーチェの本を読み漁っていた時期があって、鞄にはいつも「善悪の彼岸」とか「ツァラトゥストラ」があったのだが、その影響が今に残っているのかもしれない。

ギーターを読んでいると、師の言うことに忠実であれ、とか、師を敬え、という記述がよく出る。ぼくにとっての師匠?そんなものはいないのだが……と考えたのだが、よく考えれば、師が今生きている必要はないわけだ。

それなら、ニーチェに弟子入りしようか、とそんなことが頭に浮かぶ。



昨日は会社の人間と飲み会へ行ってきた。少し高めの中華料理屋で散々、飲み食いした。

社長の奢りだから懐は痛まない。ビール、ビール、ビール。最後には、代行を呼んでもらった。「領収書をもらっておけよ」と耳打ちされた。

昔のぼくは酔っ払うと、ひどい倦怠感でしゃべることができなくなったが、最近は笑い上戸になってきたようである。どちらかといえば饒舌になった。

こういう変化はあっても、相変わらず飲み会という場は大嫌いである。なんだか幼児的な集まりだ。ひとり、ダメな社員というか、仕事はそこそこできるのだが、性格が子ども染みた人間がいて、まあ60歳近くなのだが、彼のせいで飲み会はさんざんになった。別に暴れたりというわけではないが、つまらない話をえんえん聞かされたので、ぼくは眠くなってしまい、あくびをかみ殺すしかなかった。

いい年をした大人であっても、何も知らない子どものような人間というのは、やはりいるようである。下品な笑い、低俗な会話、不真面目、虚偽、まあ彼のような人間は、もはや何も知ることのないまま、消えてゆくのだろう。

声の大きい人間のために、その他のおとなしい人間は我慢せねばならない。そういった実情は、飲み会でも社会でも変わらないようだ。

それにしても、飲み会は、多少ぼくの孤独をやわらげてくれたようである。少しでも、質が悪くても、社交は必要だ。ぼくはといえば、四月から、まるで友人などいないのだから。

信頼できる友人が欲しいとは、少し思うが、そんなものは永遠にできないだろう。ぼくに必要なのは「場」であって、ある対象ではない。友情は存在しないのだから。

人間と人間は、相容れない。できることは、同じ場を共有することだけだ。

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