5.27.2015

苦しむことについて 5

生きることに向いていないということが、私の天才の徴かもしれないし、私の臆病さが洗練さの徴かもしれない。(ペソア)

苦しむこと、それが真剣に生きることなのであれば、そうなのかもしれない。

実際のところは、ぼくは楽になりたいとつねに思っていた。

世間の人びとが何気なくとおりすぎていく日常の日々が、ぼくにとっては痛苦と絶望に満ちていたものだから、ぼくは困惑して、這いつくばり、救いを求めたものだった。

結局、楽になれればそれがいちばん良いのだ、と思うけど、それは許されなかったというわけだ。だれによって許されなかったかといえば、それは社会でも法律でもなく、なによりも自己に許されなかったのである。

だから、ぼくにとって自己は二重の意味をもっている。ぼくをもっとも苦しめる仇は、まずもって自己なのである。しかし、いまとなってはもっとも大きな恩寵を与えてくれる存在も、また自己だ。

ぼくの生は苦しみに満ちているものだ。ぼくはある種の神経過敏で、音、光、あるいは人間関係や社会的抑圧のような、環境のなかのあらゆる要素・刺激がぼくを責め苛むのである。

世間的にこういう人間はよくいることだろう、こういう人は、ひどくなると、神経症になる。神経症になった人間の人生は、ひどい孤独と、絶望のなかにおかれるけども、革新的な神経症治療法(まあやることは草むしりだが)を確立したことで有名な森田センセが言うには、「神経症は病気ではない」ということである。

ぼくとしてもそのように思う、ぼくは普通の肉体を持っていて、病弱というよりはむしろ頑強だ。だから自分が精神を患っていることが不思議で仕方なかった。だがその理由は簡単で、神経が鋭敏なだけなのだ。

神経が鋭くなっているということが、ぼくを日常の仕事において無能化し、絶望に陥らせ、そうして、音楽や絵画にぼくを陶酔させ、読ませ、この文章を書かせる。

だから、ぼくの苦しみというのは、自己のどこかが間違っていたり、欠損していたり、失調しているわけではないのだ。それとは反対に、ぼくが苦しむことは、自己が自己であるがゆえのもので、それ自体はまったく健康ということになる。森田センセの言いたいことはそういうことなのだろう。

「私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ」という古い作品のあれになる。

ニーチェの提唱した概念もこういうことなのだろうと考えたりする。ぼくは何も、自分から苦しみの渦中に飛び込みたいと思うことはないのである。しかし、結局は、川が海に流れていくように、絶望に引き寄せられてしまう。

問題は、その流れに逆らうのか、その流れを受け入れるかだ。能動的ニヒリズム、すなわち永劫回帰の承認とは、そういうことではないのか。

社会は、快適さを追及せよ、と世間に訴えかけている。虚偽の人生モデルができあがっている。それは、もはや苦しむことのない世界、キリスト教的な、楽園のモデルである。都市は楽園だ。自然から、恩恵を残し、苦しみと絶望だけを排除した「快適な」世界。

だから、田舎にいって、美しい、畏ろしい自然に囲まれながら生きることも、また神経過敏の人生の必然なのだ、ということも考えたりする。(ペソアは都市好きだが……)

ともあれ、このひとつの真理というべきか、苦しむことについての省察は、けっこういい感じのものだと思う。

ぼくは神経症を10年以上患っていて、もがき苦しんだが、近頃になってようやく克服できたと考える。克服とは、治療ではなく、単に受け入れるということだけだが。だからまあ、この省察は、ぼくにとって10年の重みを持っている。

仕事に行こう……。

1 件のコメント:

  1. ゆきりん2015/05/27 20:23

    神経症とは治すものではなくて受け入れるものなのですね。分かりました。

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