5.10.2015

種の感覚について

別にこの国が嫌になって海外に出て行ったとしても、その先にはまた次の失望があるだけかもしれない。というか、たぶんそうだ。

それでも日本という国が我慢ならない点は数多くある。昨日も車で5時間ほど走っていたが、ほかの車のデザインの趣味の悪さに反吐が出そうだった。四角くてゴテゴテとした飾りのついたミニバンとか、それを模して小型化した軽自動車の類のデザインは、最悪の部類だ。あんなものが売れているというのだから、もはや日本人のセンスは地に落ちたのだろう。

催吐性に優れたデザイン

センスとは感覚であるから、なにかを感じとる能力だ。ミニバンとか、上の軽自動車に違和感を抱かない人が日本の大部分だとすれば、これはセンスの欠如だ。もしも上の画像のようなクルマを「かっこいい」とか「美しい」と思っているのだとしたら、それは本当に終わっている。

もっとも、ひとはこういうだろう。何が美しいか、何がかっこいいかは「人それぞれ」だと。こういう人の言いたいことはわかる。この相対主義は、まことに現代思想のメインストリームだ。ひとつのイデオロギーと言ってもいい。

しかし美しさとはおよそ万人に通低するものだ。なぜならわれわれは個人である前に、同じ人間であるからだ。それは種として同じということだ。もちろん中には遺伝子から違うダウン症の人もあるだろう。しかし一般論として、なにか対象を前にして、美を感じるとき、だれしも同様の印象を持つはずだ。そこで個々人の持つ「個性」のはたらきは、一般に信仰されているほど強くない。

別に絵画や音楽を理解しろという話ではない。だれだって、「泣いた赤鬼」を読めば悲しい気持ちになる。喜劇を読むかのようにゲラゲラ笑う奴は、普通いない。それが種としての感覚だ。

ぼくの世代は個性、個性と叫ばれて生きてきた。だから中には、「個性」が「種の感覚」を超越した、と思う人がいる。個人は集団を超越したのだ、と信じる人が。

そういう人は、萌えアニメを見ることも、古典文学を読むことも、平等だと考える。これが相対主義だ。もちろん萌えアニメを文学的に読みとることも可能だし、古典文学をアニメ感覚で見ることも可能だ。

しかし両者は平等ではない。

なんか今ひらめきのようなものを感じた。アニメは古典文学に勝ることはない。それでは良い作品とは何なのか。

良い作品とは、「種」に訴えかけるものではないか。

萌えアニメは特定の個人に訴えかけることを目的としている。特定の個人とは、オタクである。その意味でアニメは普遍性がなくて、「クールジャパン」などと喧伝したけど、海外では一部のナードにしか認知されていない。オタクが消滅したり、オタクの気が変われば、萌えアニメも消滅する(「長門有希は俺の嫁」と言っていたオタクの婚姻関係は今、どうなっているか?)。

なぜ古典は生き残るか。それは「種」に訴えかけるからだ。個人は消滅するが、種は今後もたぶん生き残るだろう。

なんだか話がめちゃくちゃに飛んでしまった。しかし同様のことだ。日本の萌えアニメが海外で受け入れられないのと同様、日本のミニバンや軽自動車の類も、海外では受け入れられていない。つまり普遍性がないのだ。

たいてい、日本でだけなされていて、海外では一般性をもたない制度や仕組みは、「日本の文化」と容易に片付けてはならない。そこにはたいてい、利権だとか、無思考があるのである。

たとえば日本の道路は過度にきれいで、「外国人は日本の道路を羨望している」と自慰的思考にふける人がいるけど、道路工事に莫大な税金がつぎ込まれているのだから当然である。海外は無駄だからしないだけである。

日本は島国だから、歴史をもつ独特の国だから、「しかたがない」という思考停止があるけれども、それも危険な罠だ。実際のところ現代の日本人はほとんど歴史から断絶されている。それは戦争というショック状態が一時あったからだ。

例えば「亭主関白」「雷親父(波平的な)」は日本古来からあるように考えがちだけど、実際にはここ百年程度の歴史しかない。(ソースは失念したが調べれば出るだろう)

「日本人は清潔好き」「日本人は列に並ぶ」という考えもあるが、これは東京オリンピックの後遺症である。つまり、日本の道路や日本人のマナーが悪かったので、「日本の印象が悪くなる」ことから、さかんに国家統制が行われた名残である。

「日本人は働きもの」という考えがあるが、江戸時代の人間はほとんど働いてなかった。それどころか「派遣社員」「日雇い労働者」が大半だった。日本は戦後なのに復興したのではない。戦後だから復興したのだ。モーレツ社員の実像は、ほとんど兵隊のイメージと重なる。「会社員」で構成された会社より「兵隊」がはたらく会社が強いのは当然といえるだろう。

実際のところは、ぼくらは日本人である前に人間であるのだから、海外と価値観はそれほど違うわけではない。良いものは良いと感じるし、悪いものは悪いと感じる。だから、海外で売れている商品が日本市場に入ると一気に淘汰が行われる、ということがある(ガラパゴス携帯がスマホに駆逐されたように)。

だから、海外でなされていて、日本でだけ行われていないことというのは、実は注意深く見ていかなければならない。日本では「世界一」のものが多い。

日本でだけ行われている事柄を一時調べたことがあった。その一部を以下に記す。

  • なぜ日本だけサービス残業があるのか。
  • なぜ日本だけ有給を取れないのか。
  • なぜ日本だけ引っ越しの平均費用が高いのか。
  • なぜ日本だけ礼金・更新料があるのか。
  • なぜ日本だけ花粉症があるのか。
  • なぜ日本だけタミフルを使うのか。
  • なぜ日本だけ狂犬病予防注射を毎年打つのか。
  • なぜ日本だけ選挙カーでキャンペーンするのか。
  • なぜ日本だけ自動車税が重複しているのか。
  • なぜ日本だけAVにモザイクがあるのか。
  • なぜ日本だけ自動車免許に2~30万円かかるのか。
  • なぜ日本だけ二十五年間年金を払わないと一円も支給されないのか。


これらはたいていが、「日本の文化」であるというよりは、利権や怠慢や圧政・悪政という言葉で片付けられてしまう。

となれば、海外に移住することはけっこう大事なことなんじゃないかと考え始めた。決して無駄ではないだろう。日本という国を客観視できるし、それに、いつでも国外脱出できるという担保は、精神衛生上有益である。

ところで、海外移住をした先達の人々を見ていると、必ずしも満足している人ばかりではない。海外が快適で、絶対に帰らないという人もいれば、日本はやっぱりすばらしい国だ、と考える人がいる。ぼくがどちらに転ぶかわからないが、まあとにかく一度試してみようと思う。

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