5.11.2015

ムーミンとサザエさん

最近またムーミンが好きになってきた。

ムーミンで印象に残ったシーンがあって、いじわるのミイが隠れて善行をしたというので、みんなでパーティをしようとなった。(新ムーミン1972年版 #15 ミイってやさしいの?


そのパーティで、ムーミン家や来客のひとびとは円卓を囲むのだけど、トゥーティッキ(おしゃまさん)はテーブルにつかずに、階段で本を読んでいる。



スナフキンはといえば「柄ではないから」と参加を辞退している。



もちろんだれも「あいつは階段で飯を食っている」「変な奴だ」とののしることもない。それを当然として、受け入れている。

この感覚が、非常に好きだった。

というのも、ぼく自身、会食というのが苦手・嫌いで、できることならワイワイ・ガヤガヤのなかには混じりたくないと思うのである。

「サザエさん」は国民的アニメと言われるが、その点ではやはり古すぎる。例えばカツオが「自我に目覚めた」として(なんだか笑える)、いつもの「テーブル(こたつ)を囲んでの食事」に参加しないとする。「ぼくは部屋で食べるよ」なんて言って、キェルケゴールでも片手に自室に引きこもるとする。

毎回必ずある円卓での食事シーン

そうすれば、家族は何とかして彼を円卓に引き戻すだろう。あれこれ策を講じて、最終的には、カツオが元通り円卓に帰着し、それで話は一件落着となるだろう。

ここにあるのは、円卓を囲むことの絶対的正義である。円卓での食事は、決して否定されることはない。なぜなら円卓は家族の絆を生みだす象徴的な場である。それを否定することは家族のつながりをも否定することになるのだ。

したがって、円卓の否定は、家族の否定ともなりうる。もちろん家族という単位は否定されることもありうる。だれでも思春期のときは、自分の家庭を心の底から憎み疎んだはずだ。これが一時的なものだからと言って、誤っているとも限らない。集団が完全であることは、個人が完全であるより、ずっと難しいものだ。

カツオの円卓からの離脱は、家族共同体の危機である。それは明らかに慣習の破壊だ。だから、家族は全力でカツオを元に戻そうとする。当然、サザエさん一家は「善意」でそれを行う。あらゆる異端者に対する制裁は善意で行われるものだ。

もちろん上のようなストーリーは勝手にでっちあげたものだから、アニメで似たような話があるわけではない。というか、国民的アニメという立場上、たぶん放送できないだろう。「円卓」は絶対的象徴であってそこに少しでも疑問の余地があってはならない。それは一種の信仰である。

この信仰は、「町内会」にも通じるし、震災後の「絆」騒動にも通じるものがある。「絆」は一見理想的な概念だが、しかしその概念は「絆」の外側に他者のあることを認めないことにつながる(認識と容認の両方の意味で)。

だからサザエさんでは、円卓を囲まない「個人」などは永遠に登場しないだろう。

まあややこしくなったが、ムーミンを見ていてぼくは心が安らぐし、かえってサザエさんは好きになれない。まあもう5,6年はサザエさんを見ていないのだが。



ぼくはといえば中学生くらいから家族との食事を拒否していた。それは他人の前ではご飯が食べづらいというまあ「会食恐怖」の類と言ってもいい。ただ、最近はそうした精神も悪くないものだと思っている。実際に、家族との関係は別に悪化していない(良くもないが)。

反抗期という時期をどう考えればよいのだろうか。人がもっとも反抗的になる時期は第二反抗期、つまり14歳くらいだろう。ところで、この14歳とはどういう時期だろうか。

いまでは20歳からが「成人」ということになるが、これは近代以降のことで、たぶん寿命が30年ほどしかない昔であれば、14歳くらいになれば立派な「大人」扱いだっただろう。

つまり反抗期とは、子どもが大人になり、人間が自立するまさにその瞬間なのかもしれない。現代ではそういった自我を(無理やりに)抑えつけて、学校に通わせ、大学まで通わせることをして、それを「成熟」だと考えている。

反抗期は一時的な発作のようなものでだとされ、従順に言うことを聞き、社会を批判否定するよりは、社会のなかで「うまく立ち回る」ことが、成熟だとされている。

でも実際に、社会はろくなものではない。だから否定されるべきものだし、反抗期の訴え、たとえば「親の言いなりになりたくない」とか「学校にいきたくない」という感情は、正しいだろう。実際、学校教育は問題だらけだし。

ぼくはよく人に「中二病」とか、「反抗期」とか言われることがある。実際そうなんだろう。でも、中二精神や反抗精神と言ったものは、人間に必要なものだと最近は考える。「大人は汚い。大人の考えは間違っている」。実際そのとおりだろうからだ。

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