5.13.2015

自由とは必然であるということ

当然ながら、権利の前には義務があるわけで・・・。

生まれたときから自由の恩恵を受けているぼくは、権利ばかり主張している駄々っ子のようなものかもしれない。日本の現状が嫌だから、自分でそれを改善する意志を持たずに、海外に逃げるなんて、それは無責任といわれても仕方がないだろう。

生まれ育った環境に感謝を、育ててくれた両親に感謝を、と言われるけども、両親に感謝したり、環境に感謝したいという気はない。環境もまたぼくによって支えられているのだし、両親もまたぼくによって支えられているのだ。何か感謝という概念が、嫌いでしかたがない。

善意はありがたく受け入れる、不必要な恩寵は退ける。別に感謝を表明する必要はない。強いていえば、享受することが感謝の表現だ。当然のように受け入れるということ、これが最大限の表現だ。なぜなら優れた善意とは、つねに自然で、過不足のないものだからだ。

話を戻そう。権利ということについて、ドイツのイェーリングという過激なおじさんはこう言うわけだ。

私権に対する個人の権利感覚が鈍感・臆病・無気力であり、不公正な法律や劣悪の制度に遮られて個人が自分の力を自由に、力強く発揮する場がなく、支持と助力を期待してしかるべき場合に迫害が行われ、その結果、不法は堪え忍ぶもの、どうにもならないものだという見方が慣れっこになっているとしよう。そんなに卑屈な、いじけた、無気力な権利感覚が、ひとたび個人ではなく全国民の権利が――たとえば国民の政治的自由の圧殺、憲法の違反ないし破棄、外敵の侵攻によって――侵害されるやいなや突如として敏感になり、精力的な行動に転ずることなど、だれが信じられようか?……そんなことはありえない!(「権利のための闘争」)

つまりイェーリングは「義務」とは忍従や我慢ではなく、むしろ各々の国民が自己の権利を自覚し、それを追及することにある、と言っているわけだ。そうしなければ国家における外敵や病気に対処できるわけがないよね、と。

でも、大衆に権利意識はない。権利ってなに?とぽかんと口を開ける人間が大部分なわけだ。家の前が抜け道で騒音がうるさい?30分のサービス残業?おいおい、それくらい我慢しろよ……となる。

孤独な作家イプセンの「民衆の敵」では、こうある。
「眞理と自由とのもつとも危險な敵」は「堅實なる多數である! さうだ! この呪ふべき、堅實なる、ぐうたらなる多數である」、「多數が正義を有することは斷じてない!」、「このひろい地球上いたるところ、馬鹿こそまさしく壓倒的大多數を占めるものである」、「馬鹿が悧巧を支配することがあたりまへ、とは怪しからん話ではないか!」、「正義とはつねに小數のみの所有するところのものだ」云々。(「ヘンリック・イプセン『民衆の敵』」から引っ張った)
真理と自由とは、「堅実な多数」には存ぜず、「バカが利口を支配している」と。まあ、でもそうかもしれない?堅実な人間は慣習の支配する社会で重宝されるものだし……。というか、堅実な人間とはまさに慣習そのものを体現する存在だ。

ぼくは最大限自由でありたいと思う。おそらく自由こそ正義だと思うからだ。ところで、自由とは「あれこれ選択できること」ではない。大澤真幸が「自由という牢獄」であげたように、「出口の扉がありすぎて脱出できなくなった人」のようであってはならない。

そうではなくて、自由とはかえって、迷いのないものだとぼくは考える。ある必然性にしたがって行動すること。つまり、自然であることだ。りんごが木から落ちるように、人間として生まれもった本分をそのままに発揮すること。おそらく、これ以上の正義は存在しないのではないかと思う。

自由の本質は「選択」ではない。自由な状態において、選択はすでになされているのだから。自由とは「必然=自然」である。

であるから、自由とは勝ち取るものというよりは、人間回帰なのだと思う。それは自然状態を意味するのか、はわからない。自由主義者は何を主張すればよいのだろう。縄文時代のような太古に戻れということか、それとも人間回帰の実現できる新社会を作り出せということか。現実的には後者だろうけど。

必然はどのように得られるか、といえば、それは自己を知っていくことしかない。いろいろなイデオロギーや迷妄を取り払って、自己と直接的に対話するような感じで、内的世界をよく観察することだろう。


ぼく自身、神経症という厄介な病気に苦しんだけど(今もだが)病気がもっとも苦しかった時期は、自分の苦しみを「間違ったもの」だとし、自分の病気を「治すべきもの」だとしていたときだ。

でも今では、自分が苦しむことは正しいことだと感じる。つまり、このような社会で、苦しみを持たない人間の方がどこかおかしいのだという(今考えると当たり前の)結論に至った。そうして、自分の苦しみを解消しようと試みるのではなく、なぜ苦しいのかを検討するようにした。そうすることで、はじめて、自分と向き合ったことになる。

最近サザエさんに言及することが多いけど、サザエさんでは晩御飯で円卓を囲まない人物は存在しない。ちびまる子では、神経を患って学校を休む人物なんて存在しない。まあ子ども向けアニメにそんなものを求めてもしょうがないのだが、記述されているものよりも、「記述されていないこと」の方が重要なのだと最近気づいた。記述されないこと、それが排除の構造なのだと。

実のところ、ぼくを苦しめていたのはこの「不在感」なのだ。ぼくのような人間があたりを見回してもいない、テレビや漫画には絶対に登場しないということ、これが実際ぼくを苦しめた。「悪役」とか「脇役」として存在するならまだいい。しかし、どこを見回してもいないのだ。だから、ある程度の年齢に達して、文学や哲学に触れて、やっと「生きることを許された」ような実感を得た。

この世のアウトサイダーを記述してあげること、社会から阻害されている人間を保護してあげること、これが今の社会に必要なことだと思う。そのためにはまずはそういう人々を認識することが大事なのだ。現時点において、彼らは「存在しない」のだから。

とまとめてみた。相変わらず仕事は、嫌だ。でも行くしかない。

0 件のコメント:

コメントを投稿