5.14.2015

娯楽の効用 / 犬は去ぬ

ああそっか。

「これは楽しいけど、しょせん娯楽だね、フィクションだね」、と思うときがある。でも、楽しく感じたってことは、それは存在するってことなんだ。

なぜなら、楽しいとき、人は存在し、存在しないとき、人は楽しくないからである。

人が存在するのは、幸福なときでも、実利的な働きをしているときでもない。「楽しい」ときである。楽しさは、不幸なときにもやってくるし、労働の最中だろうと、休暇の最中でもやってくる。

だから、子ども向けアニメだろうが、無名作家の三文小説だろうが、それを「楽しい」と感じれば、それはあなたにとって、強く存在していることになる。

それは、作り話だろうと、夢物語だろうと、あなたにとっての真実として提供されたことを意味する。楽しさとは、存在=真実の享受だから。

幸福はときに迷妄だが、楽しさは常に真実だ。なぜなら幸福は過去や未来のような条件を要求するが、楽しさはイマココの実在だからだ。何かを楽しいと感じるとき、それは真実なのだ。

だから、「しょせん息抜きの娯楽だから」と思うことを舐めてはいけない。読むことは、書くことを意味する。そうしてそれは、生きることなのである。

実際のところ、読書はある特定の他者との対話ではない。それよりもずっと自己との対話である。
しかしいちばん大きい、しかも意外な影響を与えるのは、まさに「娯楽」のために「快楽だけを目的として」読むものだ、と皆をびっくりさせるようなことを私は言いたいのである。知らぬ間にやすやすと感化を及ぼすのは、骨折らずに読む本だ。(「文芸批評論」T.S.エリオット)
最近エリオットの言うことがやっとわかってきた。

フィクションはフィクションで終わらない。それは神話が表すように、実話よりずっと多くの真実を伝えうる。伝えうるというか、真実の表現のためにフィクションは生まれたのだ。こんな当たり前のことに、最近やっと気づいた。

だから、何がぼくに影響を与えているのか、作品が何を伝えたいのかを知っておくことが必要だと感じる。自分で収支記録をつけておきたいのである。

「楽しさ」は芸術の必要条件だが、実際のところ、これを悪用する人間もいる。「低俗作品」「バカの三文記事」に見せかけて読者をコントロールしようという悪い人間もいる。それが昔からの、呪詛の類なのだろう。たくみに存在に働きかける、とは呪いの一種である。

今考えると、プロパガンダとかサブリミナル、洗脳って、呪詛の現代版だよなあ……。
呪詛は、ことばのもつ呪力に対する信仰と深く関係している。不用意に発したことばが呪詛になってしまうという例は多い。……バントゥー系の農耕民ニャキュサ人の間では、道徳規範に外れたことを行った者がいると、人々はそのことをささやき始め、そのことばが冷たい風のように相手を襲い、病気にするという。これを彼らは「人々の気息」とも「呪詛」ともいう。このように呪詛が社会の維持の働きをもっていることも多いのである。(日本大百科全書(ニッポニカ) #呪詛
呪いには、おどろおどろしい複雑怪奇な呪文が必要なわけではない。ただの噂話も、呪詛になりうるのだ。言葉は呪いである。

まとまらない、めちゃくちゃだ。これらは朝コーヒーを淹れているときに思いついたことで……だからぜんぜん煮詰まっていない。

ああそうだ!とひらめいたのはいいがぜんぜん表現できないのである。概念としては体得したのに表現できないくやしさ。たぶん二三日経てば整理がつくのだろう。


最近、ある夢を見た。犬に追いかけられる夢。


大きな犬が、野太い声で吠えながら、追いかけてくる。ぼくはさんざん追いかけ回されたあげく、夢特有の浮力で建物の屋根にのぼって、犬から逃れた。犬は飛び跳ねたり、忌まわしげに吠えたりしている。初めは恐ろしさに震えていたが、やがてあることに気づいた。

犬は、高みにのぼれない。高みにある相手に対しては、さかんに吠えるか、ぴょんぴょん飛び跳ねることしかできない。たしかに聴覚はおそろしい鳴き声を伝えるだろう。視覚は凶暴な犬の姿を捉えるだろう。

しかしその牙は決してぼくの皮膚を切り裂くことはできないのである。なぜなら彼は高みに昇れないからだ。目を閉じ、耳をふさいでしまえば、存在は消えてしまう。ぼくがもっと高みに昇れば、その姿は蟻のように小さくなり、鳴き声は風のささやきで消えてしまう。

犬は何のためにぼくを追いかけるか?ぼくを恨んでいるわけでも、ぼくの肉が欲しいわけでもない。存在を認めてもらうためである。

でも、残念ながら、犬は消失してしまう。さようなら、哀れな犬さん。悔しければ、高みにあがっておいで。それは永遠に、無理だろうけど……。

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