5.15.2015

犠牲になったセックス

酒量がどんどん増えていき、それに伴いつまみもたくさん食べるため、脂肪がつき、血液は濁り、神経は死んでいく。

そういうわけだから、断酒を試みるも、一日の労働耐えがたく、その対価として一日の終わりにせめて、アルコールで頭を濁らせなければ、とても理性的であっては日々を送れないというのが現実である。

一日8時間半の労働が耐え難い。長すぎる。まるで趣味の時間などないではないか。これでは働くために生きているかのようだ。労働はぼくの人生の一部なのだから、勝手に居座って、我が物顔をしてもらっては困る。

昔の人間は3時間しか労働しなかった、残りの時間はセックスだの音楽セッションだのダンスだの土器づくりだの朗読会だのしていたのだろう。ああなんてすばらしい生活。だいたい原始の労働といえば狩猟だの釣りだの山菜・木の実ひろいだ。遊びのようなものではないか。重税と重労働に苦しんでいた江戸時代の農民たちも、けっきょく3時間しか働いてなかったという史実がある。なぜ三倍近くにふくれあがったのだ。人間は「進歩」したのではなかったか?

ぼくがセックスできないのもすべての精力を労働に搾り取られているからである、実際労働はぼくのすべてを要求する、余力を残らず搾り取っていく、「生半可な気持ちで仕事をしてはならない」と、だれもが本当に思っている、でもまさに半可な気持ちで仕事はすべきなのだ、なぜならぼくは時間を提供し、企業は賃金を提供する、それだけの関係でしかないからだ。

立って仕事するよりは座って仕事をした方がいいし、喉が渇けば水を飲んだ方がいい。暑かったり寒ければ空調を入れる。それが労働生産性というものだ。でも、日本人はこれらを「甘え」と考える。

「ぼくがセックスできないこと」は不思議なことだ。よく考えれば、こんなことはあってはならないのだ。五体満足で、普通に暮らしている人間が、セックスの権利を剥奪されることなど、あってはならない。もっともぼくは神経症で、人嫌いだから、ある面ではしかたないが、ぼくの周りの「健康的」なひとびとでも、ほとんど浮いた話はない。実際日本人は世界一セックスしないというが、いったいセックスはどこへ行ってしまったのだろうか。

セックスは間違いなく生産活動である、あのルーチン的な前戯と、前後運動と、終焉finishingのそれぞれは、工場の生産工程を思わせる。つまり人間がもっている生産活動である、しかし、その生産能力は労働に回されてしまうのだ、「生半可ではない」とはそういうことなのだ、労働に生活を捧げるとはそういうことなのだ。ぼくらの受け取るモノやサービスは、本来セックスだったものなのだ。犠牲になったセックスなのだ。

というわけで今日も仕事に行く。くだらないことを書いた。

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