5.19.2015

いったりきたり

精神を深化させて、反社会的な方向に行ってやろうと思うときがあるが、そうすると会社での仕事はやりづらくなるし、人々との会話もままならなくなる。

この板ばさみに苦しんでいる。

これは理性と本能の葛藤のようなものだ。存在としてのぼくは、真理をつかみたいと思うし、理性としてのぼくは、俗世間の雑事を気にかけている。

できることであれば、仕事なんて抛って、どこか南国の島か、それか空気の乾燥した山にでも登って、そこに隠遁したいものだ。それでも、ぼくは今の生活を捨てきれない。せっかく買った車とドラム式洗濯機をどうするのだ、と考える。それに、仕事をして毎月給料をもらえるということは、心地いいリズムだ。気持ちよくて、安心できて、それは胎内の鼓動音に似ている。

過去の人間は、一日三時間しか働かなかった、その現実を考えてみる。カフカの仕事も午前だけだった。

現代では、一日八時間働くことはあたりまえで、それだけでも足りなくて、日本人は十時間くらい働いて、通勤に一時間程度かけている。それで一人前だとされる。

そうして、日に三時間しか働けない人間は、ぐうたらな怠け者、あるいは病人扱いだ。八時間の労働に耐えられなくて、疲れ切って動けなくなる人、うつ病になる人がいる。彼らは栄養ドリンクとか、カウンセリングとか、抗欝剤とか飲み込んで、そうして社会復帰する。是正される。

そういう社会だ。

でも、本来ひとは三時間以上働かなかった。それ以上働く意義もなかった。現代はたしかに豊かになったし、寿命も延びたけど、昔の人間と今の人間、どちらが良い人生を歩んだだろうか?

まあ、単純なノスタルジアといえるかもしれない。このようなことは、考えてもしかたないことだ。過去の生活を現代に持ってきたところで、それはもはや別物なのだ。

ぼくは今ここに在り、ここ以外にない。そのことにいちいち、口を挟んではならない。運命は享受しなければならない。自分の本分を全うするということ。

しかしまあこういう堅苦しいクソまじめ精神主義もどうでもいいものだ。執着を引っぱがし、解体してゆくことだろう。今あることに疑問をはさまないこと、神と自分を介在させないこと。存在を浸潤させること。

わたしは、偶然わたしの通る道におかれ、そして神からも愛されている人々と、神とが触れあうことのできるように、身を引かねばならない。わたしがそこにいるのは、つつしみのないことなのだ。まるで、恋しあうふたりや、親しい友人ふたりのあいだに割り込むようなものなのだ。わたしは、フィアンセがくるのを待っている若い女性ではない。そうではなく、婚約者たちのそばから離れようとしない、うるさい第三者なのだ。婚約者たちが本当にふたりきりでいられるように、第三者は離れなければならない。
ただ、このわたしが姿を消してしまえるならば、神と、今わたしが歩んでいる大地、今わたしの耳に波音をひびかせている海……などとのあいだに、完全な愛のつながりが生じるだろう。
わたしの中にあるエネルギーだとか、天分だとかが、いったいどれほど大切なものなのだろう。そんなものには、つねづねうんざりしているから、わたしは消え去るのだ。(「重力と恩寵」シモーヌ・ヴェイユ)

自分の本分を発揮したい、自分の本分とは何か、と考えることも、仕様のないことだ。スポーツでも芸術でも、意志や理性が介在するととたんにダメになる。生きるということについても、無思考の方がいいに違いない。


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