5.02.2015

過剰と欠乏について

コメントがくると書く気がなくなる。それはぼくを虚脱させる。結局他人の視線が苦手なのだろう。

ぼくは与える人間であって、与えられる人間ではないのだと思う。この世には与える人「過剰型」と与えられる人「欠乏型」がいて、与えられる人は他者との関係において力を得る人だ。そうして、ぼくは過剰型なので、つねに人に何か与えているので、家計簿はつねに赤字、財布はすっからかんになってしまった。

過剰であるから、与えることが好きなのではない。与えることは、だいたいにおいて、損をすることだ。もらうことは、かえって富むことだ。だから、ぼくのような過剰型は、とにかく人里離れたスイスの山奥みたいな一戸建てで隠遁するのが望みだし、欠乏型の人間は池袋とか原宿とかそういう、とにかく人の集まるところが好きなのだろう。テレビをつけてみると、欠乏型の人間ばかりがいて、それを見る人々は、自然と、彼に富を与えている。

それにしても、過剰と欠乏の関係は逆説的だ。ひとは言う、人懐っこくおしゃべりな人間は「陽気」で、無口で人見知りな人間は「陰気」だと。陽は過剰で陰は欠乏であるはずだ。

しかしもっとも貧しい人間がもっとも富むこともありうるものだ。「きれいはきたない。きたないはきれい」、過剰が欠乏であり、欠乏が過剰でもある。

ぼくはなんどかこう言われたことがある、「お前はなんのために生きているのかわからない」と、これは事実だ。ぼくは生まれてこの方消耗しきっていた。10代を終えるころにはからからのボロ雑巾になっていて、世の中を呪うしかなかった。しかし何のために生きるか、という命題はだれにもわからないものだ。

生き方についてのある巨大な承認がある。それは「大企業出世街道」「資産億単位」「美人な奥さん」「夢のマイホーム」「友人100人」といった陳腐な条件だ。これらの条件をして、彼はなんのために生きているか「わかる」。彼は美人の奥さんのために生きているのだ、企業でバリバリはたらくために生きているのだ、それによって、彼の生命活動は承認される。これらの条件は人に承認を与えるが、その承認はといえば神でも国家でもなく、大衆、すなわち「世間」からきている。承認による承認の連鎖。

しかし、この承認の連鎖のどこかにほころびができれば、霧散してしまうようなものだ。そろそろその兆しがきている。生きることのテーマが、ついには変わってしまうような時代だ。もっとも、世の中が変わりそうな空気、そのひび割れるような不穏な音がかすかに聞こえるような時代に限って、何も変わらなかったりするものだが。

それでなくても、変化はついにだれにも気づかれなかったりするものだ。社会の変化は個人の内面の変化とも似て、だれかに指摘されなければ気づけるものではない。しかし、これだけ情報が全人類的にいきわたるようになると、もうだれもその動きを指摘するものはないだろう。わずかに聞こえるのは、変化することを忘れてしまった老人たちのしわがれた声でしかない(最近の高齢者の犯罪率の高さは、ある種の不適合の結果であると感じる)。

池田晶子という、バブル時代に美人哲学者として活躍した人間がいた。その人はこういう、
以前は、言わなくちゃいけないこと、本当に伝えたいことは、自分の足でその場に行ってでも伝えていました。そのくらい言葉には価値がありました。言葉を安売りしてはいけません。それは自分を安売りすることに通じます。そのことをみんな忘れてしまっているんですね。
この種の発言は聞いたことがなかった。サッカーでも、楽器でも、やればやるほど上手になるものだ。だからこうして毎日数千字を書くことは、これは「安売り」なのかもしれない、などとは考えたことはなかった。

しかしスティーブン・キングはこういう、
作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知る限り、そのかわりになるものはないし、近道もない。(「書くことについて」)
もっとも彼の小説は読んだことはなくて、「シャイニング」、「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」などの映画が好きなだけだが、この公理は実際正しいだろう。

ものを書くことは治療法の一形態である。書いたり作曲したり描いたりしない人はみんな、いったいどうやって狂気や欝、人間の境遇にはつきものの追い詰められるような恐怖から逃げおおせるのかと、私はときどき不思議に思う(グレアム・グリーン)
と言われるとおり、書くことによってぼくの生はある慰めを得ている。それでも、彼らの言う「書くこと」とはブログに散文的に公開することではなかっただろう。書くことは出世=成功にもなり、生の慰めにもなるが、前者を追及するのであれば、池田の言うことはたしかだろう。

ぼくの書いている文章は、散文的で、したがってひとつの結晶ではない。ぼくの書くことは、かえって精神を解体し、すりつぶし、霧散させること、そうして余剰の精神のもつ緊張を少し楽にしてあげること、でしかない。それ自体が無為な行為で、なにものも生み出すことはない行為だ。

とにかく書くという悪癖が収まらず、漫然と生を消耗させているのかもしれないが、生きることは消耗することでもあるし、今日はバイクでどこかへ行く予定なので、これで終わりにする。

2 件のコメント:

  1. ゆきりん2015/05/02 9:48

    18歳ですが私も承認の連鎖から逃れ自分の世界観や価値観のなかで生きていくことにしました。ですが頭は痛いし、なんかいらいらします。神経質な性格からは逃れられないと思うと悲しいです。

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  2. それはしょうがないことです。第一、生まれ持った性質は変えようがありませんし、それに人生はだれにとっても悲しいものです。幸福に生きている人は、悲しいことに気づかず生きているだけで、そのどちらが良いか、ということです。

    それにしても、18歳という年齢は苦しいものだと思います。ぼくも苦しみをもって生きていますが、18歳のときはその何倍も絶望を感じていました。

    神経質であることは、病気ではないし、異常ではありません。あなたは他者ではなく、自分自身でしかないのだから、自分をしっかり見つめ、逃げずに、認めてあげることです。

    頭をひねってみたのですが、たいしたことは書けません。というのも、あなたはたぶん大丈夫だからです。ぼくのような人間があれこれ言う必要はありません。

    神経質な人間が、普通の人のまねをして、幸福そうな顔をしていたらぼくはすごく嫌悪感を抱きます。でも、神経質なひとが悲しんでいることは、それは当然のことです。不健全な精神とは、悲しむことではありません。悲しむ自分を認めないことです。

    あなたは、悲しんでいる点において正しいのです。あなたは悲しむべき人間なのです。それはたぶん、これからずっと変えようがないと思います。ぼくだって同じですが、それはしょうがないことです。しょうがないのであれば、しぶしぶでも認めるしかありません。長くなりましたが、これで終わりにします。

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