5.21.2015

笑うな

自己はすでに完成されている。

自己は世界であり、世界は自己である。そうして、世界=自己は絶対存在であり、絶対神である。

これがヒンドゥー教(大乗仏教)の教えである。アートマン=ブラフマン、つまり梵我一如の考えだ。梵とは宇宙の最高原理であり、我とは自己である。

考えてみると、自分は神と同一なのだ、宇宙の最高原理なのだ、と考えることは究極的な自己肯定といえるのかもしれない。

それはつねに傲慢や錯誤と隣り合わせだ。だからまともな宗教では思い上がりを厳しく戒めるし、そういう予防線を張っても、ある宗教が邪教化したり、政治に取り込まれたりということはしかたないことなのだろう。

ヒンドゥー教は究極的な自己肯定にその本義がある。結局は、自己の最奥と世界を同一化させるプロセスと言えるのかもしれない。
通常の理性では信じがたいことかもしれないが、君──そして意識をもつ他のすべての存在──は、万有のなかの万有だということなのである。君が日々営んでいる君のその生命は、世界の現象のたんなる一部分ではなく、ある確かな意味合いをもって、現象全体をなすものだと言うこともできる。…
周知のように[古代インドの]婆羅門たちはこれを、タト・トワム・アスィ(Tat tvam asi=其は汝なり)という、神聖にして神秘的であり、しかも単純かつ明解な、かの金言として表現した。──それはまた、「われは東方にあり、西方にあり、地上にあり、天上にあり、われは全世界なり」という言葉としても表現された。(「道を求めて」エルヴィン・シュレディンガー)

キリスト教もまた、自己肯定である。それは十字架を背負うこと(生きること)の肯定だからである。受難を「引き受ける」ことは、運命の享受(自己肯定)であり、十字架を背負ったキリストとの同化である。

宗教など、群盲象を評す、でしかないのかもしれない。われわれ人類はいまだに真理に到達できていないのかもしれない。であるから、さまざまな教義や宗派は同じ真理を表しているということがありうる。

ただ個人的にはヒンドゥー教の教えはすばらしいと感じる。まだキリスト教は深くは知らないし、ヒンドゥー教の教えと言ったって、ギーターぐらいしか読んでないのだが。



この田舎にもインド料理店があって、たまにいくのだが、インド人たちは、ほとんどしゃべらない。笑顔にならない。まるで接客業失格のその態度は、かえってインド人の強さの表れのような気がする。

インドへ旅行へ行ったときも、まじめな人々は、へらへらと笑うことはなかった。にっこり、仏陀的なほほえみをたたえるだけであった。へらへら笑いかけてくる奴らは、ほとんどがすべて詐欺師で、あとはヤク中だった。

だから日本へ帰ると、コンビニ店員まで媚びた犬のような表情(失礼)をすることに、だいぶ違和感を覚えた。

たしかに、接客業とは客がいなければ成り立たない商売である。でも、そこまで人間を安売りしてしまう必要があるのか。だいたい、客がいなければ成り立たないのはコンビニオーナーである。バイトごときは、客が来ない方がむしろ楽なのである。

あるいは、他者に対する恐怖心が笑顔という防衛機構をはたらかせるのかもしれない?たしかにぼくが接客業をしていても、かのインド人のような態度をとることは難しいだろう。客のクレームとか、上司の恫喝が怖くて、それはできないだろう。

インド人の半端な仕事は、実にいい気持ちになる。

就職してから、手抜き仕事を見るとほっとするようになった。

例えば、この前アメリカから射撃訓練用のイヤーマフを輸入したのだが、その梱包が実に爽快だった。ダンボールをあけると、剥き出しのイヤーマフがゴロンと入っている。それだけだ。

日本であれば、ビニール梱包と、乾燥剤と、何枚もの説明書きと、クッションがしきつめられているはずである。そうして、外箱はガタピシとビニールテープで圧着されているはずだ。

米人は合理的である、といえるのかもしれない。梱包剤でぎゅうぎゅう詰めにするよりは、傷物や故障品は交換してやる方がローコストだろう。

また日本の愚痴になるが、梱包がひどすぎる。組み立て家具をひとつ買うと、それだけで40lのゴミ袋に収まらない量のゴミがでる。これがエコの国なのか(いや、そうではない)。

これが「おもてなし」の実像なのだろう。バカバカしいありがた迷惑の連続だ。それは労働神経症の結晶だ。

人間はもっと自然体で生活できるようになるべきだ。コミュニケーション能力なんて言葉は棄却すべきだ。他者が好きかどうかは、生まれたときにすでに決まっているだろう。神経質な人間は他者が嫌いで、鈍感な人間は社交好きだ。それは赤ん坊のときから判別できる。よく笑う子どもと、よく泣くこどもだ。

神経質な人間が社交力をつけようとすること、それは自然体からの離脱、すなわち人工物化、工業製品化でしかない。実際のところ、臆病な人間が無理して発するジョークほど場を白けさせるものはない。

自然体であることは、笑顔とか、おしゃべりにあるのではない。かえって無口になること、他者を遠ざけることでもある。

だから、笑顔をやめるべきなのだ。インド人のように。ニコニコ笑いのファシズムに屈するな。君よ、一個の独立した不機嫌者であれ。



日本人は労働神経症である。その本質は、自己否定にある。つまり、自己よりもマニュアルの優先である。

労働において、仕事にあくせく取り組まなければならないと考えている。「仕事は辛く苦しいもの」だと思っているし、そうであるべきだと思っている。

しかし、太古から人間は働いてきた。それは本能的活動だった。

ひとは狩をし、釣りをし、種を植え、家を建てた。そうでなければ、自然を眺め、絵を描き、踊り、音楽に親しんだ。

自然的営為から、現代の労働は逸脱している。

サービス業は現近代的な発明品である。その過剰は、資本主義的社会の末路と言えるだろう。

なぜなら、もはやモノを売ることができなければ、サービスを売るしかないからである。そしてもはや売るものがなくなれば、資本主義社会は崩壊する。

日本では醜悪なデザインのミニバンがブームである。これは作られたブームだ。売りモノは資本力によって創り出される。

客は「創り出される」。客はあるものではなく作るものになった。それはテレビ広告によって、ネットの恣意的なブームによって、企業=学校教育によって。

人々は「買いたい」と思うが、実のところ、それは「買わせたい」という企業の精神と合致しているのだ。

ぼくらは店員のサービスが悪いとクレームをいれる。なぜなら、ぼくらは「サービスが欲しい」と思わされているからである。

「俺たちは客だぞ!」という悲痛な叫びが聞こえる。彼らは、もはや自己を喪失している。企業の意志にしたがう、資本主義的工業製品に成り下がっている。

まあよくわからないことを書いたが、少し煮詰めたい。

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