5.29.2015

ブラック企業とブラック学校

感情の起伏も何もない、ニュートラルな気分。

仕事の時間にあっても、それはぼくを責め苛むものではなくなった。

いろいろ改善したことがある。最近は、仕事にTシャツで行くようになった。いままではシャツを着ていたのだが。あとは、仕事中に水を飲むようになった。目薬をさすようにした。

今朝、某猫ブログを見たら、水を飲むことが健康において大事だとか書いてあった。これは事実だろう。ぼくも大学のときは、500mlのペットボトルを持ち歩いていて、給水機でなんども補充した。たぶん日に2,3リットルは飲んでいただろうと思う。水を飲むだけで、だいぶ気分がすっきりするものだ。

仕事が「させられるもの」ではなく、いくらか能動的になった。業務の効率改善案とか、そういうものも考えるようになった。

仕事は楽にこなすべきである。仕事を苦しんで行わなければならない、という考えは、唾棄すべき精神主義だ。この軍国主義的なストイシズムは、単純に労働時間と成果が比例する高度成長期には効果があったのかもしれないが、商品がハードからソフトに移行した今では、逆効果だ。日本をもっとも貧しくしている概念とすらいえる。

ぼくらは生活をゆたかにするために仕事をしているのであって、その逆ではない。仕事は苦しむべきだと考えている人は、その点で逆転している。

おそらく、仕事で苦しむ「ふり」をしている人間たちは、ふだんの生活で、かつての人生で、苦しんでこなかった人だろう。だから苦しんでいる自分を、楽しむことができるのだ。大学生が、バイトを「仕事」と言うような感覚だ。ぼくはといえば、もう苦しむのはたくさんだから、仕事くらいは楽にこなしたい。

仕事は、苦しみを与える場になった。仕事は、すべてを与えるようになった。だから人生を仕事に捧げる人が多いのだろう。


日本の大企業は「公的教育機関」と言われることがある。それは研修や独特の企業風土によって、社員の性格を巧みに書き換えるからである。それは単なる「仕事場」の役割を超越している。

日本の学校もまた独特なものである。学校は勉強するところ、というのは世界共通だが、音楽や美術の授業が毎週あったり、熱心な部活動があったり、ということはない。

すなわち、美術や音楽に、野球やサッカーに興味があるのであれば、諸外国においては、「家に帰ってから勝手にやれ」となる。単純な理論で、学校は勉強するところであり、芸術やスポーツは勉強するものではないからである。

ところが、日本の学校は何もかも提供する。それどころか、夜7時まで続く部活動や、体育祭が強制参加である。ついでに、躾も、友情も、道徳教育も、社会規範、公共心も、学校が与えることになっている。

このように、学校が「勉強するところ」ではなく、人格形成の総合的な教育機関になっているところに、日本的教育の特異点がある。

だから、子どもたちにとっては学校がすべての世界となる。なぜなら学校はすべてを与えてくれるからである。親も、社会も、不要になる。日本の子どもにだけ反抗期があると聞くが、そういうところに理由があるのではないか。実質的に親が不要なのである。

学校がすべてだから、日本では「学園モノ」が大流行するのだろう。一般的には、学校は勉強するだけの退屈なところだが、日本では世界のすべてなのだ。

それにしても、いったん学校が世界のすべてとなってしまうと、そこからの落伍者はつらいものがあるだろう。何もかも与えてくれる母性的な世界の喪失を意味するからである。

学校へ行かなくなると、子どもたちは「ひきこもり」になる。これは象徴的な事実だ。というのも、彼にとっては学校の世界がすべてで、そうであるからこそ、学校へ行けなくなったならば、じっと行動を中止するしかないのである。

まあ「ひきこもり」になったならば、不良仲間とつるんで狼藉をはたらくということはないから、良いのかもしれないが。

長くなったが、上記のような日本的学校教育は、すべて日本の大企業風土にも当てはまるものだ。会社がすべてとなるプロセスには、まず「学校がすべて」であったという背景があり、それは学校から企業へ場が移っても、まるで変わることがない。

人格形成のすべてを企業や学校にゆだねること、喜びも、苦しみも、すべてを企業や学校の「中に」求めること、つまり人間の個々の生が、企業や学校に内包されること、これは日本特有の心理状況だと思う。


当然ながらぼくはこのような風土を危険だし、おかしいことだと思っている。企業や学校に内包されたままの人々は、おそらく死ぬまで世界に立脚することがなくなるからである。

生の与えてくれる苦しみや楽しみを、直接に感じることはなく、マスキングされた、あるいは加工されたデタラメな感情を、企業によって与えられる構造は、はっきりとグロテスクである。

この考えでいくと、日本に溢れかえったブラック企業の根底には、ブラック学校の存在があるといえるだろう。教育の責任は重い、ということだ。

乳母からすべてを与えられるように、企業や学校からすべてを与えられるのであれば、もはや「私生活」など不要になってしまう。個人の生は、企業=学校に捧げられた生になる。ブラック企業から離れられず、依存する人が多いこともよく指摘されているが、これもまた同様の心理背景があると言えるだろう。

自分の生は自分のものでしかなく、その意味で個々人それぞれが責任を持っている。その責任を、放棄してはならない。

世の中には拘束されることに安らぎを覚える人がいる。人形として動くことに疑問を持たない人がいるが、そこから解放されることだろう。

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